1964年と1968年の2回、日本代表としてオリンピックに出場すると、1968年のメキシコ大会では、得点王(7得点)に輝く活躍で、日本代表を銅メダル(3位)に導いた、釜本邦茂(かまもと くにしげ)さん。

今回は、そんな釜本邦茂さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列順にご紹介します。

釜本邦茂

「釜本邦茂の生い立ちは?小学生の時に野球からサッカーに転向していた!」からの続き

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釜本邦茂の20代の頃

23歳の時にはヤンマーディーゼルでのデビュー戦でいきなり2ゴールし勝利に貢献していた

釜本邦茂さんは、早稲田大学を卒業後の1967年4月には、ヤンマーディーゼル株式会社に入社し、サッカー部に入部すると、4月9日の豊田自動織機とのデビュー戦で、いきなり2ゴールを挙げ、3対2での勝利に貢献しています。

24歳の時にはメキシコシティ五輪で得点王(7ゴール)に輝く活躍で銅メダル獲得に大きく貢献していた

そして、1968年1月には、アドバイザーのデットマール・クラマーさんの勧めもあり、西ドイツの「1.FCザールブリュッケン」へ3ヶ月間短期留学して、プロの厳しいトレーニングを受けると、たくましさとボールコントロールのテクニックに秀でた選手へと成長し、

同年10月、24歳の時には、メキシコシティ五輪で、得点王(7ゴール)に輝く活躍で、チームの銅メダル獲得に大きく貢献したのでした。

メキシコオリンピックの釜本邦茂
1968年、日本・メキシコ3位決定戦より。前半18分、杉山隆一さんからのセンタリングを受け、中央からシュートを決め先制点をあげる釜本邦茂さん。

ちなみに、初戦のナイジェリア戦では、最初は緊張していたそうですが、前半にチームが1点を取ったことで緊張がほぐれ、身体が軽くなったそうで、その後は、釜本邦茂さんがさらに2点を取って3対1で勝利。

すると、次の試合からはやることなすこと全部がうまくいうような感覚になったそうで、準々決勝のフランス戦も3対1で勝利。

この時、ひょっとしたらメダルが取れるのではないか、という雰囲気がチーム内で出てきたそうですが、当時、最強と言われたハンガリー戦では、0対5で負けてしまいます。

しかし、3位決定戦となるメキシコ戦の時、アドバイザーのデットマール・クラマーさんに、

お前ら、ここでなにも持たずに帰るのか?

と、発破(はっぱ)をかけられたことから、みんな一気にやる気になり、最後は気持ちの強さでメキシコに2対0と勝利し、銅メダルを獲得したのだそうです。

24歳の時には「天皇杯」の決勝戦で決勝ゴールを挙げる活躍でヤンマーを初優勝に導びいていた

また、釜本邦茂さんは、1969年1月、24歳の時には、「天皇杯」で、宿敵・三菱重工との決勝戦で決勝ゴールを挙げる活躍で、ヤンマーディーゼルを初優勝に導いています。

天皇杯を掲げる釜本邦茂
「天皇杯」を掲げる釜本邦茂さん。

25歳の夏にウイルス性肝炎を患い、海外移籍もメキシコW杯出場も叶わなかった

そんな釜本邦茂さんは、1970年、25歳の夏には、ブンデスリーガ2部のザールブリュッケンへの移籍が決まりかけていたそうですが・・・

折り悪く、ウイルス性肝炎を患い、50日間もの入院生活を余儀なくされてしまったそうで、移籍の話は破談になってしまい、その後、50日間の入院生活を終え、北海道の洞爺湖で3週間静養した後、試合に復帰したそうですが、

完治までに4年間もの歳月を要したそうで、夢だった1970年のメキシコW杯(ワールドカップ)にも出場することができなかったのでした。

ちなみに、釜本邦茂さんがなぜウイルス性肝炎を患ったかというと、東南アジアの水が原因だったそうで、1969年1月、天皇杯で優勝に輝くと、優勝チームは、当時の慣例で、オフに東南アジア遠征を行うことになっており、カンボジア、タイなど4カ国を強行軍で回ったそうですが、

移動と試合を繰り返すうち、五輪からのフル稼働での疲れもあり、知らず知らずのうちに、ウィルスに蝕(むしば)まれていたのだそうです。

25歳の時には2度目の得点王

それでも、釜本邦茂さんは、1970年11月、25歳の時には、日本リーグで、1968年に次いで2度目の得点王に輝き、同年12月、「第6回 アジア大会」では、3得点を挙げ、日本を4位に導いています。

1970年の釜本邦茂
1970年4月5日の三菱対ヤンマーより。ヘディングする釜本邦茂さん。(左奥は三菱の森孝慈さん)

28歳の時、ムルデカ大会で15得点を挙げ得点王

そして、釜本邦茂さんは、1972年7月、28歳の時には、マレーシアで開催された国際サッカートーナメント大会「ムルデカ大会」で、15得点を挙げて得点王に輝き、日本を3位に導いています。

釜本邦茂の30代の頃

30歳で4度目の得点王

そんな釜本邦茂さんは、1974年12月には、JSL(日本サッカーリーグ)で、4度目の得点王に輝き、ヤンマーディーゼルを2度目の優勝に導いています。

(初優勝は、1971年11月)

1974年の釜本邦茂
1974年、2人にからまれても倒れない釜本邦茂さん(中央)。

31歳で5度目の得点王

また、釜本邦茂さんは、1975年12月14日、31歳の時には、JSL(日本サッカーリーグ)三菱戦において、5度目の得点王に輝き、ヤンマーディーゼルを3度目の優勝に導いています。

1975年の釜本邦茂
1975年12月14日、JSL三菱対ヤンマー戦にて、4点目(4対1)を決めて突き放し、ゴールラインを駆け抜ける釜本邦茂さん。

33歳で日本代表を引退

一方、1973年5月、FIFAワールドカップ・西ドイツ大会は予選で敗退し、1974年9月、「第7回 アジア大会」も1次リーグで敗退、1976年3月のモントリオールオリンピックも予選敗退と、敗退が続くと、釜本邦茂さんは、モントリオールオリンピック予選後に日本代表引退。

ただ、二宮寛監督の説得に応じ、復帰すると、1976年8月に開催された「ムルデカ大会」では、二列目に下がり、FWの奥寺康彦さんとの見事なコンビネーションでチームを準優勝に導いています。

しかし、1977年3月、FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会予選では、イスラエル戦前のウォーミングアップ中に肉離れを起こてしまい、ケガを押して出場するも、無得点に終わってしまい、チームも韓国とイスラエルに競り負けてしまったのでした。

これで、釜本邦茂さんは、今度こそ、日本代表引退を決意したそうで、1977年9月14日、33歳の時、ニューヨーク・コスモス戦(ペレさんと釜本邦茂さんの引退試合)を最後に日本代表を引退したのでした。

釜本邦茂の40代の頃

40歳で現役を引退

それでも釜本邦茂さんは、翌年の1978年には、ヤンマーディーゼルの選手兼任監督に就任すると、その後も、選手兼任監督として、JSL(日本サッカーリーグ)1部リーグ優勝1回(4度目の優勝)、JSLカップ優勝2回を成し遂げるのですが、

1984年、2月13日には、現役引退を発表すると、同年8月25日、国立競技場で開催された引退試合をもって、現役を引退したのでした。

(1984年1月の天皇杯決勝戦が最後の試合となりました)

1980年の釜本邦茂
1980年5月18日、新日鉄戦で決勝ゴールを決め、ガッツポーズする釜本邦茂さん。

ちなみに、引退の理由は、自宅で、椅子から立ち上がる際、テーブルに身体を強く打ち付けてしまったことが原因だったそうで、

釜本邦茂さんは、この時、

もう(日常の簡単な動作さえ出来ないのなら)選手は仕舞いやな

と、引退を決意したのだそうです。

1984年の引退試合でプレーする釜本邦茂
1984年の引退試合でプレーする釜本邦茂さん。

47歳でガンバ大阪の監督に就任

その後、釜本邦茂さんは、1985年2月には、ヤンマーディーゼルの監督を辞任すると、1991年7月には、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任するのですが、1995年1月には、ガンバ大阪の監督を辞任しています。

釜本邦茂の50代の頃

51歳の時に参議院議員当選

そして、釜本邦茂さんは、1995年7月には、第17回参議院議員通常選挙で、自民党公認として比例区より立候補すると、見事当選し、以降、2001年7月まで、政治家として活動しています。

52歳で日本サッカー協会(JFA)の理事に就任

ただ、その後は政治界から退き、

  • 1996年(52歳)日本サッカー協会(JFA)の理事
  • 1998年7月(54歳)日本サッカー協会副会長
  • 1999年7月(55歳)2002年強化推進本部長
  • 2000年7月(56歳)労働総括政務次官

を、歴任しています。

釜本邦茂は61歳の時に日本サッカー殿堂入り

そんな釜本邦茂さんは、2005年5月27日、61歳の時には、選手時代の実績が認められ、第1回日本サッカー殿堂入りを果たしています。

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釜本邦茂は70歳の時に旭日中綬章受章

また、釜本邦茂さんは、2014年、70歳の時には、旭日中綬章を受章しています。

「釜本邦茂の妻は?子供は?孫は?咽頭ガンで闘病していた!」に続く

釜本邦茂
64歳の時の釜本邦茂さん。

お読みいただきありがとうございました

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