1967年に日本サッカーリーグでプロデビューすると、以降、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)、得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、日本年間最優秀選手賞7回受賞(歴代1位)と様々な記録を打ち立てた、釜本邦茂(かまもと くにしげ)さんですが、実は、小学校時代は野球少年で、サッカーはあまり好きではなかったといいます。

ただ、小学6年生の時、現役のサッカー選手だった姉の担任の先生に足の速さを見初められて、サッカーに転向することを勧められ、サッカー選手になればいろいろな国に行けると思い、野球からサッカーに転向したといいます。

今回は、そんな釜本邦茂さんの、生い立ち(幼少期から早稲田大学時代まで)をご紹介します。

高校時代の釜本邦茂

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釜本邦茂のプロフィール

釜本邦茂さんは、1944年4月15日生まれ、
京都府京都市右京区太秦(うずまさ)の出身、

身長179センチ、
体重79キロ、

血液型はB型、

学歴は、
京都市立太秦小学校
⇒京都市立蜂ヶ岡中学校
⇒京都府立山城高等学校
⇒早稲田大学卒業

趣味は、ゴルフ、時代劇のテレビ鑑賞、

ちなみに、釜本邦茂は本名で、愛称は、ガマ、ガマッチョです。

釜本邦茂の幼少期は身体を動かしながらのびのびと育っていた

釜本邦茂さんは、太秦(うずまさ)小学校と道を挟んだ高台にある長屋で、4番目の子供(兄2人、姉1人)として誕生すると、幼い頃は、近所の広隆寺の境内が遊び場だったそうで、べったんや鬼ごっこ、夏は保津川で水遊びをするなど、身体を動かしながらのびのびと育ったそうです。

また、家から遊び場まで最短距離で行くために、途中の家々の塀や垣根を乗り越えたり、太秦の東映撮影所に忍び込んではチャンバラごっこをするなど、活発な少年だったそうです。

ちなみに、釜本邦茂さんは、これらの遊びの全てがサッカーに役立ったと思っているそうで、

例えば、塀一つ越えるにも「ホンマに飛び降りて大丈夫か」と判断を迫られる。川に行けば跳んでも渡れそうにない川幅の場所に上級生に連れていかれる。

一歩間違えばとんでもないことになるが、そうやって跳んだりはねたり転んだりしながら、いろんな機能や感覚を全方位的に発達させていったように思う。

と、語っています。

釜本邦茂の小学校時代

小学校低学年の頃は三角ベース(野球)に夢中だった

釜本邦茂さんの地元・京都には、教職員で構成する京都紫光サッカークラブ(Jリーグ京都パープルサンガの前身)があり、そこに所属していた先生が各学校に散らばっていたことから、

釜本邦茂さんの通っていた小学校も、体育の時間や放課後などはずっとサッカーをやるほど、サッカーが盛んだったそうですが、釜本邦茂さんはというと、実は、サッカーよりも、三角ベース(野球)に夢中だったそうです。

(三角ベースのほかに、校庭の砂場で相撲もとったそうです)

小学4年生の時にサッカーを始めるも好きではなかった

ただ、先生たちがサッカーの練習をしているところに混ざって、生徒たちも一緒にサッカーを教えてもらっていたことから、釜本邦茂さんも自然とサッカーをするようになり、小学4年生の冬から本格的にサッカーを始めたそうですが、

当初は、人がごちゃごちゃとボールに群がり、目立つことのできないサッカーが好きになれず、

(サッカーは当時、それほどメジャーなスポーツでなかったこともあり)

仲間に、

ゴール前で待ってるから速く俺にボールを寄越せ

と、横着な催促をしていたのだそうです。

小学6年生の時に野球からサッカーに転向

やがて、足の速い釜本邦茂さんは、サッカーのクラス対抗戦で、縦パスを追いかけて点を取る活躍を見せたそうで、そんな釜本邦茂さんの活躍が、お姉さんの担任だった池田璋也先生の目に留まり、

小学校卒業を間近に控えた3月末、お母さんを介して、

野球をやってもせいぜい行けてアメリカくらい。サッカーは世界中のどこでもやってるし、オリンピックにも出られるかもしれへん

と、聞かされたそうで、

釜本邦茂さんは、中学に入学後は、野球部に入部するつもりでいたそうですが、サッカー選手になれば、いろいろな国に行けると聞いて心変わりし、サッカーに転向したのだそうです。

(池田璋也先生は、教職員で構成する京都紫光クラブ(Jリーグ京都パープルサンガの前身)の現役選手でした)

釜本邦茂の中学校時代

中学1年生の時にサッカー部に入部するも球拾いの毎日に嫌気が差し退部しようとしていた

こうして、釜本邦茂さんは、京都市立蜂ヶ岡中学校に進学後は、サッカー部に入部したそうですが、毎日、球拾いばかりだったことから、アホらしくなって退部しようとしていたそうです。

そんな中、中学1年生の秋の市の大会で、足の速さを買われて先発で出場し、踏みとどまったのだそうです。

ただ、この時、釜本邦茂さんは、上級生のユニフォームを借りたそうですが、この頃、まだ小柄だったため、背番号「8」の下の丸が隠れて「0」にしか見えず、顧問の大久保忠先生や先輩に大笑いされたのだそうです。

ちなみに、釜本邦茂さんが身長が伸びないことを悩んでいると、お父さんが、かしわ(鶏)のスープを作って飲ませてくれたそうで、これが効果があったのか、中学2年生の終わりから3年生にかけて18センチも身長が伸びたのだそうです。

中学3年生の時には、京阪神三都市大会で優勝

そんな釜本邦茂さんは、中学3年生の時には、キャプテンとして、蜂ケ岡中を率いると、神戸と大阪も交えた、京阪神三都市大会で、見事、優勝を果たしています。

(釜本邦茂さん率いる蜂ケ岡中は、京阪神三都市大会の常連だったため、釜本邦茂さんは京阪神地域でその名を轟(とどろ)かせたそうです)

釜本邦茂の高校時代

その後、釜本邦茂さんは、1960年、16歳の時、京都府立山城高等学校に進学し、サッカー部に入部すると、同年10月には、熊本国民体育大会で優勝、1962年1月、17歳の時には、全国高校サッカー選手権で、チームを準優勝に導きます。

そして、この年(1962年)4月には、日本ユース代表に選出され、「第4回 アジアユース大会」に出場するのですが、ドイツ人サッカー指導者のデットマール・クラマーからスピード不足を指摘され、世界との差を痛感すると、以降、正確かつプレースピードを上げる特訓に励んだのだそうです。

高校時代の釜本邦茂
高校時代の釜本邦茂さん。

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釜本邦茂の早稲田大学時代

4年連続得点王

釜本邦茂さんは、1963年、高校卒業後は、早稲田大学第二商学部に進学すると、関東大学リーグでは初戦の日大戦で4ゴールを挙げるほか、7試合で11ゴールして、早大の優勝に貢献すると、11得点で得点王に輝いています。

そして、その後も(この年を含め)大学リーグでは4年連続で得点王に輝くほか、日本ユース代表主将として第5回アジアユース選手権にも出場しているのですが、

釜本邦茂さんは、4年連続得点王に輝いたことについて、

そうですね(笑)。僕の仕事は、点を入れることだから一生懸命練習しただけ。

と、語っています。

2度の天皇杯優勝に貢献

また、釜本邦茂さんは、1964年1月、19歳の時には、「第43回天皇杯」が王子公園グラウンドで開催されているのですが、1回戦で東洋工業、準決勝で関大、決勝で日立製作所(現柏レイソル)を破って、早稲田大学を優勝に導くと、

1966年1月、22歳の時にも、「第46回天皇杯」で、東洋工業(後のサンフレッチェ広島)を破って、早稲田大学を優勝に導いており、早稲田大学の2度の天皇杯優勝に大きく貢献しています。

20歳で日本代表に選出されてオリンピックに出場し、ベスト8となるも、自身は無得点に終わっていた

そんな釜本邦茂さんは、1964年、20歳の時には、日本代表に選出され、東京オリンピックに出場するのですが、日本代表としてはベスト8に入ったものの、釜本邦茂さん自身は無得点に終わってしまい、

釜本邦茂さんは、

東京五輪の初戦は、雨の中でのアルゼンチン戦だった。僕がセンタリングでパスを出して、川淵さんが頭で同点ゴールを決めた。その後、小城(得達(ありたつ))さんが決勝ゴールを決め、ベスト8入りを果たしました。

チームとしては良かったですよ。でも自分が「何をしたか」ですよね。チームに貢献したか、というと何もしていない。世界のレベルから言うと、三流以下の選手だと感じましたね。

と、悔しさをにじませています。

「釜本邦茂の若い頃は?現在までの経歴を時系列でまとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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