1957年1月場所で花籠部屋から初土俵を踏み、11年の下積みを経て、1968年に新入幕を果たすと、1970年には三役(小結)に昇格し、回転の速い突っ張り、思い切りの良い肩透かしなど、きっぷのいい相撲でファンを沸かした、龍虎勢朋(りゅうこ せいほう)さん。

今回は、そんな龍虎勢朋さんの若い頃の活躍や経歴を、相撲取り時代から芸能界デビューを交えて時系列でまとめてみました。

龍虎勢朋

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龍虎勢朋のプロフィール

龍虎勢朋さんは、1941年1月9日生まれ、
東京都大田区の出身、

身長186センチ(現役時代)
体重132キロ(現役時代)

血液型はAB型、

学歴は、
東京都立大森高等学校中退、

ちなみに、四股名(しこな)は、

  1. 「鈴木山」(1959年1月場所~11月場所)
  2. 「花武蔵」(1959年1月場所~9月場所)
  3. 「若神山」(1959年11月場所~1964年11月場所?)
  4. 「花武蔵」(1964年11月場所~1966年5月場所前)
  5. 「龍虎」(1956年5月場所前~引退(2014年)

と、変遷しています。

また、本名は、「鈴木忠清」(すずき ただきよ)で、別名義に「龍虎孝宗」「龍虎」「放駒清一」があるそうです。

龍虎勢朋は北の富士と同期で16歳の時に花籠部屋から初土俵を踏んでいた

龍虎勢朋さんは、幼い頃から背が高く、大相撲力士にさせようと考えていた両親の意向で、角界入りすると、1957年1月場所(16歳の時)で花籠部屋から初土俵を踏んだそうですが、

50名の同期の中、北の富士さん(後に第52代横綱)と並んでとても軽く、最下層の実力しかなかったそうです。

(実際、稽古すると、龍虎勢朋さんは、すぐに倒れるため、口の悪い兄弟弟子から”電柱”と揶揄(やゆ)されたそうです)

ちなみに、北の富士さんは、後に、

50人の新弟子の中で一番弱かったのがオレと龍虎でした。オレと同じで、細くてへなちょこだったけれど、土俵を縦横無尽に暴れてオレにはないものを持っていた。

おかしなもので50人中、幕内になったのはオレと龍虎だけです

と、語っています。

龍虎勢朋が20代の時は当時の最遅記録で新入幕を果たすと横綱の大鵬から金星を挙げるほか新三役(小結)に昇進していた

27歳の時に新入幕を果たしていた

それでも、龍虎勢朋さんは、初土俵を踏んでから11年の下積みを経た、1968年3月場所(27歳)で、新入幕を果たすと、新入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げ敢闘賞を獲得。

入幕を果たした龍虎勢朋さんは、花光さん、若天龍さんと共に「籠三羽烏」と呼ばれ、期待されたのでした。

(龍虎勢朋さんの幕内昇進は、当時、最も遅い記録だったそうです)

28歳の時に横綱の大鵬から初金星を挙げていた

そして、1969年5月場所(前頭2枚目)では、横綱の大鵬さんから初金星を挙げ、この場所8勝7敗で殊勲賞を獲得すると、翌7月場所も東前頭筆頭(幕内前頭中の最上位)で8勝7敗の成績を挙げています。

29歳の時に新三役(小結)に昇進

ただ、新三役には昇進できず、翌9月場所も東前頭筆頭で3勝12敗と大敗してしまうのですが・・・

その後は、ほぼ安定した成績を挙げ、幕内上位を保持すると、ついに、1970年3月場所で、新三役(小結)に昇進し、1970年9月場所(前頭11枚目)では自己最高の13勝2敗を挙げたのでした。

龍虎勢朋

龍虎勢朋が30代の時はアキレス腱断裂で幕下に陥落するも三役(小結)に返り咲いていた

30歳の時に左アキレス腱を断裂して途中休場し幕下に陥落していた

しかし、1971年11月場所の6日目(30歳)には、義ノ花戦で左アキレス腱を断裂。

龍虎勢朋さんは、途中休場すると、1972年1月場所から4場所連続休場せざるを得なくなり、幕下(褌担ぎ)まで陥落してしまったのでした。

ちなみに、幕下に落ちると、

  • (1000万円だった)給料は2ヶ月毎の場所手当数万円のみ
  • 稽古のまわしは(関取用の白いまわしから)褌担ぎ(ふんどしかつぎ)が使う木綿の硬いまわしになり
  • 背中を流してくれる付き人もいなくなり
  • ちゃんこ鍋は(作りたての熱いものを食べることができず)人が食べた後に食べることになり
  • 大銀杏(おおいちょう)も結えなくなる

ということになり、

30歳を過ぎたベテランの龍虎勢朋さんが、このような立場になるのは非常に厳しく、誰もが引退するだろうと考えたのでした。

(この時の龍虎勢朋さんの負傷を受け、日本相撲協会は1972年1月場所より公傷制度を導入しているのですが(2003年11月場所限りで廃止)、龍虎勢朋さんには制度が適用されず、世間の同情を集めたそうです)

32歳の時に幕内復帰を果たしていた

そんな中、龍虎勢朋さんは、幕下から出直すと、着実に番付けを上げていき、1972年9月場所では、7戦全勝で幕下優勝、1973年3月場所では、11勝4敗で十両優勝、と実績を重ね、

ついに、1973年7月場所で幕内復帰を果たすと、1975年1月場所では小結となり、三役にも返り咲いたのでした。

(破門など協会からの離職によるブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は、龍虎勢朋さんが史上初だったそうです)

龍虎勢朋
1974年9月21日、横綱の北の湖さん(右)を突き落としで破る龍虎勢朋さん。

34歳の時に現役を引退

しかし、1975年5月場所初日前頭4枚目旭國戦では、今度は右アキレス腱を切断してしまい、その場所限りで現役を引退したのでした。

(実は、アキレス腱断絶は復帰後2度目だったそうで、計3度もアキレス腱を断絶したことになります)

龍虎勢朋
1974年、(左から)若三杉さん、龍虎勢朋さん、魁傑さん。

龍虎勢朋は30代で現役引退後は俳優・タレントとして活動

34歳で現役引退後は親方業と並行して俳優・タレントとしても活動

そんな龍虎勢朋さんは、現役時代から、華やかで濃い顔立ちのイケメン力士として人気を博し、芸能界からも注目されていたことから、

34歳で現役引退後は、親方業を続けるかたわら、俳優、タレントとして、テレビドラマや映画で活躍し、「暴れん坊将軍」シリーズでは、力士「龍虎」役で出演するほか、北島三郎さんの座長公演などにも出演しています。

そして、1976年からは、料理バラエティ番組「料理天国」でリポーターを務めると、試食後の感想で「おいしいですね」という言葉は、龍虎勢朋さんのキャッチフレーズとなったのでした。

龍虎勢朋
「料理天国」より。

36歳の時には親方業を廃業し芸能活動一本に絞っていた

そして、1977年、36歳の時には親方を廃業すると(相撲協会退職)、四股名(しこな)の「龍虎」を芸名として、芸能活動一本に絞り、大相撲のご意見番としてワイドショーに出演するほか、数多くのテレビドラマなどに出演したのでした。

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龍虎勢朋は40代の時にくも膜下出血で倒れていた

しかし、1990年(49歳)頃には、くも膜下出血で倒れると、一命は取り留めたものの、2001年、60歳の時には、嘔吐(おうと)を訴えて都内の病院に入院するなど、体調を崩すことも多かったそうです。

龍虎勢朋の死因は循環器疾患

それでも、龍虎勢朋さんは、2012年、71歳の時には、アサヒ緑健のCMに出演するほか、2013年1月には、納谷幸喜(元・大鵬)さんの葬儀に参列するなど、メディアの前に姿を現していたのですが・・・

2014年8月29日、家族旅行のお礼参りで事任八幡宮を訪れた際、本宮への階段を上っている最中に倒れ、娘さんと息子さんが救命措置を施したものの、搬送先の静岡県掛川市の病院で、循環器疾患により、73歳で死去されたのでした。

ちなみに、妻の貴子さんによると、歩き遅れて追いついてこない龍虎さんを不審に思い、呼び戻ったところ、倒れている龍虎勢朋さんを発見したそうで、

長女の珠子さんと長男の規裕さんが心肺蘇生措置を施し、救急搬送されたそうですが、意識は戻らなかったそうで、

貴子さんは、取材に対し、

朝は5時半に起きて、車を出したり、楽しそうでした

(過去に心筋梗塞を患っていたが、最近は体調も良さそうだったそうで)異変に気付いてあげられず、心残りです。優しく、昔風で温かい人でした。あまりに突然で帰って来てくれるような気がして…

と、涙ながらに語っています。

「龍虎勢朋と浜木綿子の破局原因は香川照之!妻は?子供は娘1人と息子1人!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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