1980年、16歳の時に、「二代目引田天功」を襲名すると、その後、中国やエジプトのイリュージョンを取り入れつつ、独自のマジックショーを構築し、スリリングで息を呑む圧巻のイリュージョンで世界を舞台に活躍した、プリンセス天功(ぷりんせす てんこう)さん。

今回は、そんなプリンセス天功さんの、若い頃(アイドルデビュー後)から現在までの活躍や経歴を、時系列でご紹介します。

プリンセス天功

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プリンセス天功は16歳の時に引田天功(初代)の代役を務めていた

1976年、12歳頃、引田天功(初代)さんの事務所に入り、舞台女優を目指しつつ、引田天功(初代)さんのアシスタントとして一緒にステージに立つようになると、

やがて、スカウトされ、1978年、14歳頃には、マジックを披露しながら歌うアイドル歌手として「朝風まり」名義でレコードデビューしたプリンセス天功さんは、1979年には、2枚目のレコードを出すのですが、

朝風まり「くせになるから」

そんな中、引田天功(初代)さんが、心筋梗塞で倒れ、日本テレビで放送予定だった、富士山での大脱出ショーが出来なくなり、

急遽、テレビ局から、

女の子のほうが、視聴率が取れるから

と言われ、同じ事務所のプリンセス天功さんが代役を務めることになったそうで、

(プリンセス天功さんは、マジックのことは全然分からなかったそうですが、とにかく時間がなく、1時間ほどで全部覚えて、次の日のショーに出演しなければならないという無茶振りだったそうです)

プリンセス天功さんは、その時のことについて、

もちろん怖かったですよ。でも、「一度引き受けたことなのだから、大人としてちゃんとやりきりなさい」と周りの大人たちから説得されて。

ショーを成功させるために、ものすごい人数の大人たちが動いているのを見て、私ひとりのわがままは通せないなと思いました。それに、「18歳までしか生きられないのなら」という開き直りのような気持ちもありましたね。

と、語っています。

(プリンセス天功さんは、幼少期から病弱で「18歳までしか生きられない」と言われていたそうです)

プリンセス天功は16歳の時に引田天功を二代目として引き継いでいた

そして、見事、富士山での大脱出ショーを務め上げたプリンセス天功さんは、二代目(引田天功)をどうするかという問題になった時、

舞台関係者やテレビ局のプロデューサーから、

男性の代わりを男性がやるよりも、女性のほうがいい

女の子でもできるからやりなさい

女の子のほうが話題になるから

などと言われたそうで、

一度は、アイドルとしての自分を応援してくれているファンのことを考え断ったそうですが、

後援会の人に、

使命だと思って頑張ってやりなさい

人にはカルマというものがある。あなたならできるから、天功の名前を継ぎなさい

と、説得されたそうで、

まるで、トロッコに乗せられて、そのまま押されるような形で、1980年、16歳の時、二代目として、引田天功を引き継ぐことになったのだそうです。

そんなプリンセス天功さんは、マジックについて、毎日、数多くの本を読んで勉強したそうで、従来の”脱出マジック”はもちろんのこと、やがては、幼い頃にアメリカのテレビで見た、当時の日本にはなかった、歌と踊りとマジックを融合させたレビューショーのスタイルも取り入れるようになったそうですが、

当初、まだ、10代の女の子だったプリンセス天功さんは、二代目を襲名することを快く思わない人たちから激しいバッシングを受けたそうで、

楽屋に大道具を置かれて使えなくされたり、ステージで使うハトを殺されてしまったりと、陰湿なイジメを受けるほか、

様々な方面から、

歌手でも俳優でもないくせに。そんなのマジックとは認めない!

と、しばしば非難されたといいます。

ただ、プリンセス天功さんは、

私が二代目を継ぐ以上、これまでの日本のマジシャンとはまったく違うショーをやります

と宣言し、

中国やエジプトのイリュージョンの歴史、マジックの仕組みなどを学びながら、それらを自身のショーに取り入れ、自分にしかできない引田天功像を模索していったのだそうです。

プリンセス天功

プリンセス天功は10代~20代の頃にアメリカに進出していた

それでも、イジメを受け続け、つらく苦しい思いで心がくじけそうになったというプリンセス天功さんですが、

そんな時、日本で長期公演をやっていた際、アメリカのメジャーテレビ局やラスベガスのプロデューサーの人たちが、プリンセス天功さんの舞台を見て、

アメリカで活躍する方がいい

と誘ってくれたそうで、

プリンセス天功さんは、アメリカに活動を拠点を移したのだそうです。

(プリンセス天功さんのステージが独創的だと、ディズニー社の社長の目に留まり、ハリウッドにあるクラブ「マジックキャッスル」から招かれたという話も)

プリンセス天功は30代前半の頃に「PRINCESS TENKO」としてアメリカでブレイクしていた

すると、プリンセス天功さんのイリュージョンは、アメリカで大好評を博し、NBC放送の番組で準レギュラーとして出演するほか、

1995年、31歳頃には、プリンセス天功さんを主人公にしたアニメ「Princess Tenko and the Guardians of Magic」が放送されたり、「Princess Tenkoドール」が発売されるなど、たちまち、アメリカでブレイクしたのでした。

プリンセス天功
「Tenkoドール」

プリンセス天功が30代の時には世界各地で公演を行い年間約300回のステージをこなしていた

その後、プリンセス天功さんは、日本に「逆輸入」の形で凱旋(がいせん)帰国すると、世界各地で公演を行うようになり、年間約300回ものステージをこなすなど、精力的に活動。

また、プリンセス天功さんは、2003年~2009年(39歳、40歳)頃には、「笑っていいとも!」の水曜日に、隔週レギュラーとして出演するなど、テレビのバラエティやワイドショーに出演するなど、タレント活動も行ったのでした。

プリンセス天功
「笑っていいとも!」に出演するプリンセス天功さん(右端)。

プリンセス天功が40代~50代の頃は「日本レスキュー協会特別顧問」ほか

そんなプリンセス天功さんは、40代~50代の頃には、イリュージョンのほかにも、

  • 「2009Road to JBC レースキャラクター」
  • 「アフリカ野生動物保護団体A.W.F日本親善大使」
  • 「レスキュードッグ育成団体特定NPO法人日本レスキュー協会特別顧問」
  • 「国際どうぶつ映画協会名誉総裁」
  • 「美ら島沖縄大使」
  • 「下呂温泉親善大使」
  • 「下呂市観光アドバイザー」
  • 「いわき市復興イベント 2012~2013親善大使&プロデューサー」

などの活動もしており、動物愛好家としても知られています。

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プリンセス天功は60代で音楽ユニット「KinG00」を結成

また、プリンセス天功さんは、2024年3月3日には、シンガー・ソングライターのyucatさんとプリンセス天功さんのペットであるホワイトライオンのKINGと、ミュージック&ネオパフォーマンスグループ「KinG00」(キング)を結成し、

実に、約45年ぶりに音楽活動を再開すると、この日、yucatさん作詞作曲の「Magical Jungle」を配信リリースしています。

「プリンセス天功は脱出マジック失敗(事故)で大ケガを何度も繰り返していた!」に続く

プリンセス天功
2人と1匹の新ユニット「KinG00」

お読みいただきありがとうございました

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