プロボクサー引退後、コメディアン時代は、呂律の回らない奇妙な喋り方や、画面に出てくるだけで笑いを取れるコメディアンとして、絶大な人気を博した、たこ八郎(たこ はちろう)さん。

そんなたこ八郎さんは、右耳が欠損しており、少年時代に犬に食いちぎられたからだという噂があるようですが、実際はどうなのでしょうか?

また、たこ八郎さんは、右耳の欠損だけではなく、左目は失明し、プロボクシング時代に患ったパンチドランカー(慢性外傷性脳症)の後遺症でも様々な障害を抱え苦しんでいたといいます。

今回は、たこ八郎さんの右耳の真相、左目失明の経緯、知られざるパンチドランカーの後遺症についてご紹介します。

たこ八郎

「たこ八郎の葬儀でのタモリの追悼が独特!赤塚不二夫は?たこ地蔵とは?」からの続き

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たこ八郎の左目はほとんど視力が失われていた

たこ八郎さんは、小学3年生の時、「三角沼」と村人たちが呼んでいた、膝までつかるほど深い沼地で、村のガキ大将と泥を投げ合って遊んでいた際、相手の投げた泥の塊(かたまり)がまともに左目に当たったそうで、

たこ八郎さんは、すぐに、小川の水で目を洗うも、(角膜と水晶体に傷がつき)左目がチカチカと痛んだそうですが、そのまま放置して病院に行かなかったそうで、

その結果、時が経つにつれて視力が低下し、最終的には光を感じるだけとなってしまったそうです。

(また、左目のまぶたが緩んで垂れ落ち、左右がいびつになったそうです)

ちなみに、たこ八郎さんは、左目のケガのことを誰にも言わずに黙っていたそうですが、その理由は、

  • 母親に心配かけたくなかった
  • 父親に怒られるのが嫌だった
  • 家が裕福ではなかったため、病院に行けば親に迷惑がかかると思っていた

などと、言われています。

とはいえ、たこ八郎さんは、プロボクサー時代には、

左目さえ右目の1.0があれば・・・

と、少年時代の不覚を悔いていたそうですが、

もし、左目がほとんど見えないことを誰かに知られると、自分のボクシングはたちまち終わってしまうと思い、絶対に誰にも言うまいと心に決めていたといいます。

たこ八郎はパンチドランカー(慢性外傷性脳症)の後遺症で寝小便や言語障害に悩まされていた

また、たこ八郎さんは、プロボクサー時代のパンチドランカー(慢性外傷性脳症)の後遺症として、膀胱、直腸障害、言語障害にも悩まされていたといいます。

(パンチドランカーとは、大脳の側頭葉や頭頂葉を圧迫することで、脳と硬膜の間に血腫ができる脳障害のことを言うそうです)

たこ八郎さんは、1964年4月2日にボクシングを引退すると、その翌日には、コメディアンを目指し、由利徹さんに弟子入したそうですが、

由利徹さんの自宅に住み込んで半年経った頃、突然、(膀胱障害の症状が表れ)寝小便をするようになったそうで、

やがて、夜だけではなく、由利徹さんの車で公演に出かける時など、揺れると、ふっと意識を失って失禁するようになり、

さらには、膀胱障害に直腸障害が加わり、排便のコントロールができずに、寝小便に大便が混じることも、たびたび、あったのだそうです。

また、公演では、少し長いセリフになると覚えられなかったそうで、やがては、ほとんどセリフなしの、ただ、舞台の端から端まで走り抜けるだけ、といった役になったのだそうです。

ちなみに、約6年後には、寝小便が止まり、その後、直腸障害と言語障害も消えたそうですが、既に、たこ八郎さんは、言語障害による呂律の回らない奇妙な喋り方がお客さんを笑わせることができるネタとなっていたため、治った後もそのままにしていたといいます。

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たこ八郎の右耳は居酒屋で酔った客に絡まれ食いちぎられていた

そんなたこ八郎さんは、右耳が欠損しており、

少年時代に犬に食いちぎられた

という噂があるようですが、これは真実ではありません。

たこ八郎さんは、(有名になる前の)1969年、29歳の時、映画監督の山本晋也さんからオファーを受けて「未亡人下宿」シリーズで映画デビューしているのですが、

ちょうどその頃(由利徹さんの弟子時代という話も)、居酒屋で酔ってからんできた男と大ゲンカとなり、なんと、相手の男に右耳へ噛みつかれて食いちぎられてしまったそうで、

しかも、たこ八郎さんは、手術後、病院に通わず、ガーゼも交換しなかったそうで、壊死してしまったのだそうです。

ちなみに、たこ八郎さんは、この頃、プロボクサー時代の後遺症(パンチドランカー)に悩まされ、身も心も荒みきっていたことから、酒場でからまれると、よくケンカをしていたそうですが、

有名になってからは、腹が立つとズボンのポケットに手を突っ込むようにして、事件は起こさなくなったといいます。

ただ、目だけではなく、耳までも片方を失ってしまったことは、後遺症に苦しんだ時代を思い起こさせるものとして、また、自身のボクシングが障害を負った後も支払わなければならなかった代償のように思えて辛かったといいます。

それでも、たこ八郎さんは、やがて、(映画監督の山本晋也さんの励ましもあり)

そうか左目の古傷も含めそうなってしまったんだからしょうがない。これが自分と人に認めてもらえばいい。そしてこれを自身の笑いのネタにすればいい

と、前向きに考えられるようになったといいます。

「たこ八郎がCM出演していた缶チューハイはタコハイではなかった!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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