ハスキーな歌声で、「弟よ」「想い出ぼろぼろ」「六本木ララバイ」などがヒットした、内藤やす子(ないとう やすこ)さん。
そんな内藤やす子さんは、浪曲師だった両親の影響で、幼い頃から三味線や長唄に親しむと、小学4年生の時には、ジミ・ヘンドリックスに衝撃を受けてハードロックに夢中になったそうで、
やがては、歌手になる夢を抱くようになると、高校1年生の時には、猛反対する両親を説得し、浪曲師・二葉百合子さんに弟子入りして、二葉百合子さんの前座歌手を務めるようになったといいます。
今回は、内藤やす子さんの幼少期(生い立ち)からアマチュアバンド時代までをご紹介します。
内藤やす子のプロフィール
内藤やす子さんは、1950年9月28日生まれ、
神奈川県横浜市本牧出身、
(東京都板橋区育ち)
身長155センチ、
血液型はA型、
学歴は、
豊島岡女子学園中学
⇒豊島岡女子学園高等学校中退
ちなみに、本名は「内藤泰子」(読み方同じ)です。
内藤やす子は幼い頃は浪曲師の両親の巡業について各地を転々としていた
内藤やす子さんは、浪曲師の両親(お父さんは寿々木菊若、お母さんは三原咲子の芸名で活動していたそうです)のもと、神奈川県横浜市本牧に誕生すると、
幼い頃は、浪曲師の両親の巡業について、各地を転々とする生活を送っていたそうですが、
内藤やす子さんが4歳の時、両親は、娘の将来を考え、浪曲を辞めて一家で東京都板橋区に定住し、新聞販売店を始めたそうです。
内藤やす子は小学3年生の時に柔道を始め初段になっていた
内藤やす子さんは、幼い頃、体が弱く、学校も休みがちだったそうですが、
小学3年生の時、柔道を習い始めると、体が丈夫になり、初段を取得するまでになったといいます。
内藤やす子は小学4年生の時にジミ・ヘンドリックスに衝撃を受けハードロックに夢中になっていた
また、内藤やす子さんは、幼い頃は、両親の影響で三味線や長唄に親しんでいたそうですが、
小学4年生の時、アメリカ人の友達の家で、ジミ・ヘンドリックスの曲を初めて聴き、衝撃を受けたそうで、以降、ハード・ロックに夢中になったそうです。
内藤やす子は私立中学に進学してバンドを結成していた
そんな内藤やす子さんは、学校の成績があまり良くなかったそうですが、家庭教師をつけてもらって勉強に励むと、私立中学校の豊島岡女子学園中学校に見事合格したそうで、
中学時代は、バンドを結成し、練習に励んだそうです。
内藤やす子は16~17歳の時に浪曲師・二葉百合子に弟子入りし前座歌手を務めていた
すると、やがて、内藤やす子さんは、歌手を志すようになり、高校1年生の時には、どうしても歌手になりたいと両親に訴えたそうですが、両親は猛反対。
(お父さんには殴られたそうです)
それでも、内藤やす子さんは、ハンストをして抵抗し、最終的には説得に成功したそうで、
お父さんの知り合いの浪曲師・二葉百合子さんに弟子入りし、二葉百合子さんの前座歌手を3年間務めたのだそうです。
内藤やす子は18歳の時に家出しロックバンドのヴォーカリストとしてジャズ喫茶や米軍キャンプ周りをしていた
とはいえ、内藤やす子さんが本当にやりたかったのはロックやジャズで、親の手前、仕方なく二葉百合子さんのもとにいたそうで、
18歳の時には、ついに、家を飛び出し、アマチュアのロックバンドでヴォーカリストを務めると、ジャズ喫茶や米軍キャンプをバンド仲間と周る日々を送ったのだそうです。
(ちり紙交換のバイトをしたり、コカ・コーラの瓶を酒屋に持っていくなど、小銭を稼いで、なんとかギリギリの生活をしていたそうです)
「【画像】内藤やす子の若い頃は大麻で逮捕!病気も?現在までのヒット曲は?」に続く
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