「アンドレ・カンドレ」としてデビューするも、鳴かず飛ばずだった井上陽水(いのうえ ようすい)さんは、1971年に「ポリドール・レコード」に移籍し、1972年3月ファーストシングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たすと、1973年3月、3枚目のシングル「夢の中へ」が大ヒットを記録。同年12月にリリースした3枚目のアルバム「氷の世界」は、日本レコード史上初のミリオンセールスを達成し、井上さんは一躍トップアーティストの仲間入りを果たしたのでした。


「本名は?アンドレ・カンドレ?歯科医めざし三浪していた!」からの続き

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「ポリドール・レコード」に移籍

デビュー後、シングルを3枚リリースするも、全く売れず、
「アンドレ・カンドレ」としての活動を終えた井上さんは、
早くも、「ホリプロ」の人員整理の対象に。

そして、そんな時、「ポリドール・レコード」で、
フリーディレクターをしていた多賀英典さんから誘われ、
1971年、「ポリドール・レコード」に移籍されます。

実は、井上さんは、以前、
音楽プロデューサーの川瀬泰雄さんに、
デモテープを手渡していたのですが、

そのテープを聞いた川瀬さんは、

ビートルズの影響を受けながらも、メロディが素晴らしく美しい。

と、井上さんを評価しており、
そのテープを多賀さんに渡され、

多賀さんも、川瀬さん同様、
井上さんを評価されたのでした。

「人生が二度あれば」で再デビュー

こうして、「ポリドール・レコード」から、
レコードを出すことになった井上さんは、

初のアルバム「断絶」のレコーディングを始めると同時に、
芸名を、「アンドレ・カンドレ」から、
現在の「井上陽水(いのうえ ようすい)」に変え、

翌年の1972年3月、
ファーストシングル「人生が二度あれば」で再デビュー。

「人生が二度あれば」

そして、同年5月には、アルバム「断絶」をリリースすると、
当初は売れなかったものの、徐々に売れ始めたのでした。

「断絶」

ちなみに、プロデューサーの川瀬さんが、

当時、吉田拓郎泉谷しげる全盛の頃で、
彼らのコンサートは、みんなしゃべりが上手だった。

コンサートの半分は、しゃべりで客をわかせたりしていた。
ところが、我が陽水選手は、まるでダメ。
無理してしゃべってはみたが、ぜんぜん受けない。

それでも彼の歌を聞いた客からは評判がよかった。
そのうち、彼がコンサートでポツリと言う言葉が受けることがあった。

僕らはそれを忘れずにメモして、次のコンサートの時にも、
同じ“ポツリ”を使ったり、ともかく客に受けることで必死だった。
そうした努力が実ったというのか「断絶」は売れ始めた。

と、明かされているのに対し、
井上さんは、売れた理由について、

「おりからのフォークブームでなんとなく浮上」

と、おっしゃっています(笑)

「傘がない」「夢の中へ」

その後、1972年7月には、
アルバム「断絶」よりリカットした、
セカンドシングル「傘がない」をリリース。

「傘がない」

当初はヒットしなかったものの、

都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

で始まるこの曲は、じわじわと、
聴いた人たちに軽い衝撃を与えていくと、

(現在では、井上さんの初期の頃の、
 代表作とまで言われるようになっています。)

1972年12月には、
2枚目のアルバム「陽水II センチメンタル」をリリース。

「陽水II センチメンタル」

そして、1973年3月、
3枚目のシングル「夢の中へ」をリリースすると、

オリコンチャート17位にランクインし、
20万枚近いセールスを記録。

日本語の音韻をうまくビート感に乗せたこの曲は、

みんなで歌えるように作った。

と、井上さんがコメントされているとおり、
多くの人に親しまれたのでした。

アルバム「氷の季節」が日本初のミリオンセラーに

また、1975年8月には、当時はまだ、
LP(レコード盤)が高価だった時代にもかかわらず、

1973年12月にリリースした3枚目のアルバム「氷の世界」が、
発売から2年で日本レコード史上初のミリオンセールスを達成。

1974年10月リリースの、
4枚目のアルバム「二色の独楽」

1976年3月リリースの、
5枚目のアルバム「招待状のないショー」

も、立て続けにオリコン1位を獲得するなど、
安定した人気を誇ったのでした。

ちなみに、井上さんは、「氷の世界」について、

(物事の裏側に)確かにずっと興味があって、
「氷の世界」を出す以前の歌謡曲の大半は、
表の部分を表現するのがメインだった。

裏の部分なんて、わざわざ歌にしたくてもさ~っていう風潮でね(笑)。
「自己嫌悪? だれがそんな歌聞きたいのよ~」って言われてたワケで。

でも僕はむしろ表面的なものはあまり好きじゃなくてね。
「裏路地」が好きだったんですね、昔から(笑)。

と、おっしゃっています。

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大麻所持で逮捕

その後、井上さんは、1977年9月10日に、
「大麻所持」で逮捕され、

取り調べの際には、

自分は酒が飲めないので、くつろぐためにマリファナを吸った。

と、自供し、同年10月11日、
「懲役8ヶ月、執行猶予2年」の判決が下されるも、

大麻取締法違反で逮捕される井上さん(1977年9月10日)

その執行猶予期間中に、
6枚目のアルバム「”white”」をリリース、

「”white”」

翌年1979年9月には、
7枚目のアルバム「スニーカーダンサー」をリリースし、

「スニーカーダンサー」

いずれもオリコンチャート3位を獲得する、
相変わらずの好調をキープしていたのですが、

1980年にリリースした8枚目のアルバム「EVERY NIGHT」は、
これまでと音楽性が大きく変わったせいか、売上が伸びず、

「EVERY NIGHT」

以降、

9thアルバム「あやしい夜をまって」(1981年11月)
10thアルバム「LION & PELICAN」(1982年12月)
11thアルバム「バレリーナ」(1983年12月)



と、売上が伸び悩んでいったのでした。

「バックバンドを安全地帯が?中森明菜に飾りじゃないのよ涙は!」に続く

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