1982年、自身のバックバンドだった「安全地帯」に「ワインレッドの心」の詞を提供すると、たちまち大ヒットを記録し、「安全地帯」を一躍、人気バンドへと導いた、井上陽水(いのうえ ようすい)さんは、続く「恋の予感」でも「安全地帯」に詞を提供し大ヒットさせているのですが、
そんな井上陽水さんと「安全地帯」のボーカル・玉置浩二さんは、井上陽水さんがまだ、デビュー前のアマチュアバンドだった「安全地帯」の練習場を訪れたことがきっかけで知り合ったといいます。
今回は、井上陽水さんと玉置浩二さんの出会い、「安全地帯」が井上陽水さんのバックバンドになった経緯などを、主に玉置浩二さんの目線からご紹介します。
「井上陽水は大麻取締法違反で逮捕されていた!大麻に手を出した理由とは?」からの続き
井上陽水と玉置浩二の出会い
井上陽水さんは、1981年7月、「ジェラシー」(1981年6月21日リリース)のキャンペーン中、キティレコードのディレクターの金子章平さんの勧めで、
あまり気乗りがしない中、北海道の「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」を訪れ、当時、北海道で実力NO.1のアマチュアバンドだった「安全地帯」のメンバーと2曲セッションを行ったそうで、
(「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」は、略称MFP(「音楽を耕す農夫集団」の意)といい、北海道旭川市郊外の永山地区に建てられた音楽専用スタジオで、当時、「安全地帯」の練習場だったそうです)
「安全地帯」のボーカルの玉置浩二さんは、井上陽水さんの第一印象について、
“でかい!”っていうのが第一印象でしたね。身体も雰囲気も。
と、語っています。
また、玉置浩二さんは、井上陽水さんとのこの時の出会いについて、
で、いきなり陽水さんが「歌おう」って。あらかじめ演奏を覚えておくように言われていた曲を2曲くらい歌って、「じゃあね」っていう感じで帰って行ったんです。
陽水さんが僕らの演奏をどう思ったか、まったくわからないままでしたね。
と、語っています。
井上陽水は「安全地帯」をバックバンドに起用していた
そんな中、井上陽水さんに同行していたキティレコードのディレクターの金子章平さんは、「安全地帯」の演奏を聴き、その場で、「安全地帯」を井上陽水さんのバックバンドに起用することを決定したそうで、
金子章平さんは、その理由について、
井上陽水のバックバンドに、まだアマチュアだった安全地帯を起用した理由は、井上陽水の持っている複雑なニュアンスが入り組んだ表現の美しさに、安全地帯の純粋な想いが込められた音楽が加わることで、お互いにとってプラスに働くと思ったからです。
と、明かしています。
こうして、「安全地帯」は、同年8月から行われる「81 井上陽水ツアー」から、井上陽水さんのバックバンドとして帯同しているのですが、
玉置浩二さんによると、
井上陽水さんとたった1回セッションしただけで、後日、井上陽水さんから、突然、
東京に来なさい、次のツアー一緒に回ろう
と、連絡があったそうで、
玉置浩二さんは、
うれしいけど、困りました。そんなに器用でもない俺たちに陽水さんのバックができるだろうか、と思って。
きっと何かいいものを持っているんだろうって思ってくれたから採用してくれたんでしょうけど、何がよかったか、自分たちではわからないですね(苦笑)
と、語っています。
井上陽水は「安全地帯」にロック以外にも歌謡曲やポップスなど幅広い音楽に目を向けるよう促していた
また、玉置浩二さんによると、井上陽水さんは、この時、ロック一辺倒だった「安全地帯」のメンバーに、ロック以外にも、歌謡曲やポップスなど、幅広い音楽に目を向けるよう促したそうで、
玉置浩二さんは、
その頃のオレたちにはロック以外なにも考えられなかったね。とにかくドゥービーを聴いて、打ちのめされていたから。やっぱりロックはカッコイイし、オレたちにはこれしかないと思っていた。メソメソしたのはやってられんな、ってね。
でもそんなことにこだわっている自分の方が小さいって気づいたんだ。自分のやりたいものをやることの方が自然だし、自分の姿勢の問題だって思うようになったんだ。
表現の仕方で、たとえ歌謡曲だって違うものになる。陽水さんに会って、それに目覚めたのね。無言のうちに教えられたんだよね。
と、語っています。
ちなみに、玉置浩二さんは、井上陽水さんとセッションをするまでは、井上陽水さんにフォークシンガーのイメージを持っていたそうですが、
5人でハードロックをガンガンやっていたんだけど陽水さん一人に打ちのめされた
とも、語っています。
井上陽水が「安全地帯」に作詞を提供した「ワインレッドの心」「恋の予感」は大ヒットを記録していた
こうして、「安全地帯」は、1982年1月24日、音楽番組「夜のヒットスタジオ」に、井上陽水さんのバックバンドとしてテレビ初出演を果たすと、1982年2月25日にはデビューも果たし、
井上陽水さんの春・夏のコンサートにサポートミュージシャンとして参加すると、秋から翌年1983年1月まで、井上陽水さんの全国ツアーのバックバンドを務めたそうですが、
1983年年11月には、井上陽水さんが詞を提供した、「ワインレッドの心」が71万枚を売り上げる大ヒット。
「ワインレッドの心」
さらには、1984年10月には、同じく井上陽水さんが詞を提供した、「恋の予感」が43万枚を売り上げる大ヒットを記録したのでした。
「恋の予感」
「井上陽水は中森明菜に「飾りじゃないのよ涙は」を自ら提供していた!」に続く