1973年、14歳の時、「安全地帯」を結成し、1982年、24歳の時、シングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューすると、
以降、「ワインレッドの心」「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」など多数のヒット曲を飛ばしてきた、玉置浩二(たまき こうじ)さん。
そんな玉置浩二さんは、幼い頃には、民謡の先生だったおばあちゃんの教室で民謡を歌い、中学1年生の時には、ギターを始めてバンドを結成すると、中学卒業後、一旦は高校に進学するも、プロを目指して高校を中退していたといいます。
今回は、玉置浩二さんの生い立ち(幼少期からプロを目指して高校を中退するまで)をご紹介します。
玉置浩二のプロフィール
玉置浩二さんは、1958年9月13日生まれ、
北海道旭川市の出身、
身長177センチ、
血液型はA型、
学歴は、
旭川市立神居小学校
⇒旭川市立神居中学校
⇒北海道旭川農業高校中退
趣味は、絵画、野球観戦、散歩、
ちなみに、「玉置浩二」は本名です。
玉置浩二の兄・玉置一芳は「安全地帯」の初代ドラマーだった
玉置浩二さんのお兄さんは、玉置一芳さんというそうですが、実は、「安全地帯」(まだアマチュアだった頃)の初代ドラマーだったそうです。
玉置一芳さんは、1973年11月、ベースの宮下隆宏さんと共に、弟の玉置浩二さんが結成した「安全地帯」に加入したそうですが、この頃、玉置一芳さんがレッド・ツェッペリンに憧れていた影響で、「安全地帯」はフォークからロックに傾倒していたといいます。
そんな中、「安全地帯」は、プロを目指すアマチュアミュージシャンの登竜門だった「ヤマハポピュラーソングコンテスト」にも出場しているのですが、玉置一芳さんは、1977年6月に脱退したそうです。
ちなみに、その後、玉置一芳さんは、2008年頃、妻で歌手の玉置美記子さん(玉置浩二さんの義理姉)とバンドを結成して地元・旭川のイベントなどで活動するほか、玉置美記子さんのプロデュースも務めています。
(玉置美記子さんは、2014年にメジャーデビューを果たしています)
また、玉置一芳さん自身も、2025年現在、「玉兄バンド」というバンドでライブをするなど精力的に音楽活動を続けているそうです。
玉置浩二は3歳の時から民謡を歌い作曲も始めていた
さておき、玉置浩二さんは、旭川市役職員のお父さんのもと、3人きょうだい(兄と姉)の末っ子として誕生すると、
3歳の時から、おばあちゃんが先生をしていた民謡教室で民謡を歌っていたそうですが、なんと、この頃、初めて曲を作ったといいます。
玉置浩二の中学時代は野球部のエースで4番、キャプテンを務めるほか生徒会長も務めていた
また、玉置浩二さんは、中学時代には野球部に入部すると、エースで4番、キャプテンを務めるほか、生徒会長も務める、文武両道な少年だったといいます。
ただ、玉置浩二さんいわく、
みんなちゃんとしてるけど、(自分は)ちゃんとしてないからね。よーいドンって言って、後ろに行くような人間。
と、とにかくウケることしか考えていなかったそうで、
お調子者の一面もあったようです。
玉置浩二は中学2年生の時に武沢豊と2人組ロックバンド「コショウ」を結成していた
そんな玉置浩二さんは、中学に進学した頃から、自己流でギターを始めると、
1972年、中学2年生の時には、転入してきた武沢豊さんとたまたま席が隣同士となって意気投合したそうで、武沢豊さんと2人組のロックバンド「コショウ」を結成し、音楽活動を始めたそうです。
(玉置浩二さんは、武沢豊さんの掌がとても大きく、それは空手を稽古しているからだと思い込み、当初は恐れを覚えていたそうですが、実はそうではなく、クラシックギターを習っているからだと知り、武沢豊さんが練習曲を上手に弾く姿に惹かれ、バンドの結成を誘ったのだそうです)
ちなみに、玉置浩二さんの兄・玉置一芳さんによると、玉置浩二さんは、当時から歌がうまいと学校で有名だったといいます。
玉置浩二は中学2年生の時に武沢豊、進藤雅仁と共に3人組バンドを結成していた
その後、玉置浩二さんは、同級生の進藤雅仁さんとも交流が始まり、同年(1972年)には、武沢豊さん、進藤雅仁さんと3人でバンドを結成し、フォーク調のオリジナル曲を作り始めたそうですが、
玉置浩二さんは、作詞が苦手だったそうで、詞が書けず、国語の教科書に載っていた文章をそのまま詞にしていたのだそうです。
(このバンドの名前はなかったそうです)
玉置浩二は14歳の時にバンド「インベーダー」(後に安全地帯)を結成していた
そして、1973年4月(玉置浩二さん14歳)には、武沢豊さんの兄・武沢俊也さん(ギター、キーボード)も加わって、バンド名を「インベーダー」とし、フォークグループとして、ガロの「学生街の喫茶店」などをよく演奏していたそうですが、
ほどなくして、進藤雅仁さんの提案で「安全地帯」へと改名したのだそうです。
ちなみに、後に、玉置浩二さんは、10代の頃、武沢俊也さんに一番影響を受けたと語っているほか、
井上陽水さんら他の確たるミュージシャンと比べても当時の武沢俊也さんの才能は素晴らしかった
と、語っています。
玉置浩二は14歳の時に「安全地帯」でボーカルと作曲を担当し「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に挑戦し始めていた
その後、玉置浩二さんは、バンド「安全地帯」でボーカルと作曲を担当すると、主に作詞を担当していた武沢俊也さんと共にオリジナル曲を多数作ったそうで、
この年(1973年)から、「ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」にも挑戦し始めたそうです。
(ポプコンでの優勝者にはレコードデビューが約束されており、当時のプロデビューを夢見るアマチュアミュージシャンたちの登竜門だったそうです)
玉置浩二はプロになる決意をし高校を中退していた
そんな玉置浩二さんは、1974年、中学卒業後、一旦は高校に進学するも、プロになる決意を固め、高校を中退すると、
「マチイ楽器店」という店が無料で貸してくれた雑居ビルの屋上で練習に明け暮れる日々を送るようになったそうです。
また、1973年11月には、玉置浩二さんの兄・玉置一芳さん(ドラム)と宮下隆宏さん(ベース)が「安全地帯」に加入したそうですが、
1974年に進藤雅仁さんが高校受験のため脱退すると、この頃から、「安全地帯」はレッド・ツェッペリンに憧れていた玉置一芳さんの影響でロック色を強めていったそうです。
玉置浩二は18歳の時に「安全地帯」として「ヤマハポピュラーソングコンテスト」で北海道代表になっていた
そして、「ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」には、1973年の第6回以降、第11回を除く第13回まで連続出場したそうですが、
第12回では(玉置浩二さん18歳)、玉置浩二さん作詞・作曲の「昔みたもの」で、北海道代表となり、始めて全国大会に出場するも、優勝することはできず、なかなか期待する結果は得られなかったのだそうです。
「玉置浩二のデビュー前(アマチュア時代)は”北海道の地元の仲間だけで作る音楽”を目指していた!」に続く
14歳の時に「安全地帯」を結成すると、自作曲を多数作り、度々、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に挑戦するなど精力的に音楽活動を展開すると、中学卒業後は、一旦、高校に進学するも、プロを目指して高校を中退したという、玉置 …