14歳の時に「安全地帯」を結成すると、自作曲を多数作り、度々、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に挑戦するなど精力的に音楽活動を展開すると、中学卒業後は、一旦、高校に進学するも、プロを目指して高校を中退したという、玉置浩二(たまき こうじ)さん。

そんな玉置浩二さんは、自分たちのスタジオを作ろうと、北海道旭川近郊に、廃農家を改造したスタジオ「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」を完成させると、”地元の仲間だけで作る音楽”を目指し、メンバーと合宿生活をスタートさせていたといいます。

今回は、玉置浩二さんのデビュー前(北海道でのアマチュア時代)についてご紹介します。

玉置浩二

「玉置浩二の生い立ちは?幼少期は民謡!高校中退してプロを目指していた!」からの続き

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玉置浩二は18歳の時に兄でドラムの玉置一芳を脱退させていた

玉置浩二さんは、バンド「安全地帯」として、度々、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に参加するも、なかなか思うような結果が残せなかったそうですが、

そんな中、練習に身が入っていなかった実兄でドラムの玉置一芳さんを脱退させると、

ドラム未経験の大平市治さんを、

俺がおまえをドラムとして育てる

と言って、加入させたそうです。(1977年)

玉置浩二が19歳の時「安全地帯」は六土開正、矢萩渉、田中裕二が加入し8人編成となっていた

さらに、玉置浩二さんは、1977年12月、19歳の時には、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」で、しばしば競い合い、かねてから注目していた「六土開正(ろくどはるよし)バンド」のメンバーと意気投合すると、「六土開正バンド」を「安全地帯」に吸収合併し、

六土開正さん(ベース、キーボード)、矢萩渉さん(ギター)、田中裕二さん(ドラム)が新たに「安全地帯」に加入したそうで、

これで、「安全地帯」は、玉置浩二さん、宮下隆宏さん(ベース)、武沢豊さん(ギター)、武沢俊也さん(キーボード)、大平市治さん(ドラム)、六土開正さん(キーボード)、矢萩渉さん(ギター)、田中裕二さん(ドラム)の8人編成となったそうです。

北海道時代の「安全地帯」
8人編成だった頃の「安全地帯」。

玉置浩二は19歳の時に廃農家を改造した練習スタジオMFPを作り「安全地帯」のメンバーと共同生活を開始していた

そんな玉置浩二さんたちは、その後、自分たちのスタジオを作ろうと、1978年2月、北海道旭川市郊外の永山地区にある廃農家を借金をして改造し、練習スタジオ「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」(略称MFP=”音楽を耕す農夫集団”の意)を4ヶ月かけて完成させると、メンバーと共同生活をスタートさせたそうで、

旭川で音楽をつくり、旭川で演奏し、旭川に人を呼び込む

という理念を掲げ、

200万円の借金返済のために8人それぞれがバイトしつつ、連日連夜、1日7~8時間に渡り、演奏練習、楽曲制作、録音に明け暮れる日々を送ったのだそうです。

(ただ、1978年~1979年頃には、ワンマンだった玉置浩二さんについていけなくなった、宮下隆宏さんと田中裕二さんが脱退。その後、田中裕二さんは1982年に再加入しています)

玉置浩二は22歳の時に「安全地帯」としてキティレコードと正式契約をしていた

そんな中、同年(1978年)11月頃には、「安全地帯」のデモテープを入手したキティレコード(現・ユニバーサルミュージック)が関心を示し、ディレクターの金子章平さんとプロデューサーの星勝さんが、相次いでMFPまで訪ねて来たそうで、

(この時、金子章平さんは、想像を超える、ストレートでパンチのある演奏を見て「安全地帯」の将来性を確信したそうです)

1981年1月(玉置浩二さん22歳)、「安全地帯」は、キティレコードと正式に契約したのでした。

(1979年5月にも、レコードデビューのチャンスが巡ってきたそうですが、この時は、最終的には、バンドサウンドが未完成と判断され、レコードデビューは保留となってしまったそうです)

玉置浩二は22歳の時、武沢俊也が脱退したことで、”地元の仲間だけで作る音楽”から”東京での成功”に目標を変更していた

しかし、これからという同年3月、これまで、曲作りにおいて唯一無二のパートナーとして信頼と絆を深めていた、武沢俊也さんが脱退。

(武沢俊也さんは、作詞を巡る星勝さんとのやりとりの中、スランプとなり、プロでやっていく重圧に耐えられなくなったそうです)

すると、パートナーを失った玉置浩二さんは、自身の作る楽曲に自信が持てなくなったそうで、”地元の仲間だけで作る音楽”にこだわっていたことから、「安全地帯」の他のメンバーに作詞をしてもらうのが一番だったそうですが、この時の「安全地帯」のメンバーでは納得のできる歌詞を書ける人がいなかったそうで、

武沢俊也さんに復帰を請うたそうですが、武沢俊也さんに復帰の意思はなく、ついに、玉置浩二さんは、自分たちが向かう方向性を”地元の仲間だけで作る音楽”から”東京での成功”に転換したのだそうです。

ちなみに、玉置浩二さんは、この時のことを、

“北海道で音楽やる”より、“東京で成功する”に変わったんです。もうここで成功しないと何の意味もないって

と、語っています。

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玉置浩二は22歳の時に井上陽水に誘われて上京していた

そんな中、同年(1981年)7月、星勝さんの紹介で、井上陽水さんが合宿所を訪ねてきたそうで、

(当時、星勝さんは井上陽水さんの編曲を担当していました)

その時は、井上陽水さんと2曲セッションを行っただけで、井上陽水さんは帰って行ったそうですが、

後日、井上陽水さんに東京に来るように言われ、玉置浩二さんたち「安全地帯」は、井上陽水さんのバックバンドとして上京することとなったのでした。

「【画像】玉置浩二の若い頃は「ワインレッドの心」「恋の予感」ほか!現在までの経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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