1975年、アーティスト主導による画期的なレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立すると、同年には、前代未聞のオールナイト野外コンサートを見事成功に導いた、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、3年目に売上が低迷すると、全ての歯車が狂い始めます。

「吉田拓郎は日本初の野外オールナイトイベントを成功させていた!」からの続き

Sponsored Link

2年間は順調も3年目に売上が低迷

初年度の1975年には、翌日をまたぐオールナイトの大規模野外コンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を成功させるなど、年間売上が業界全体売上184億円中31億円に達し、

翌年1976年も、公称41億4千万円(実質20億7千万円だと言われています)の売上と好調だった「フォーライフ・レコード」ですが、

1976年11月にリリースした、吉田さん、小室等さん、井上陽水さん、泉谷しげるさんら4人のスプリット・アルバム「クリスマス」の売上は、初回プレス30万枚を発売するも、累計10万枚にも届かない不振に陥り、1977年の年間売上は、8億円までに落ち込んでしまいます。


クリスマス

吉田拓郎が小室等に代わって社長に就任するも・・・

そこで、1977年6月には、吉田さんが、小室等さんに代わって代表取締役社長に就任する意思を表明すると、井上さんと泉谷さんは反対したそうですが、

吉田さんは、

みんなの意見を聞いていたら3ヵ月で出るレコードが1年かかる。フォーライフの再建は俺しかない

と、言って、社長に就任。

以降は、吉田さんは、自身の音楽活動は休止し、大手プロダクションやレコード会社社長と接待ゴルフをしたり酒を飲み交わすなど、社長業に専念したそうですが、

吉田さんのワンマン体制となったことから、小室等さん、井上陽水さん、泉谷しげるさんの3人は経営から手を引き、一(いち)プロデューサーとなったのでした。

(もともとは、小室等さんが代表取締役社長、後藤由多加さんが副社長、吉田さんと井上陽水さんと泉谷しげるさんは平の取締役でした)

Sponsored Link

社長を退任しアーティスト業に専念

そんな中、やがては、吉田さんが、水谷豊さんなど歌謡曲も手掛けるようになったことで、アーティストでいたいという気持ちが強かった泉谷さんが、もともとの「フォーライフ・レコード」の考え方と違うという理由で、吉田さんとケンカ別れする形で、1977年7月13日に「フォーライフ・レコード」を退社。

(この時、吉田さんだけが「辞めるな」と言って引き止めたそうですが、以来、泉谷さんと他の3人は、10年に渡り音信不通となったそうです。また、泉谷さんは、このことで「フォークの裏切り者」のレッテルを貼られライブをやってもお客が入らなくなり、そんな中、向田邦子さんからオファーがあり、俳優業をするようになっています

そして、1982年6月には、吉田さんも、アーティストとしての理想と、利益を生み出さねばならないレコード会社の経営という現実問題に疲弊したのか、アーティスト業に専念するという理由で、「フォーライフ・レコード」の社長を退任。1999年には、専属アーティスト契約も解消しています。

(「フォーライフ・レコード」は、吉田さんが社長退任後は、副社長だった後藤由多加さんが社長となり、1990年代には、杏里さん、長渕剛さん、坂本龍一さん、今井美樹さん、井上陽水さんのヒットがあったものの、やがて、主力アーティストが相次いで他社へ移籍したことで経営が悪化し、2001年には倒産しています)

「吉田拓郎の最初の妻・四角佳子との馴れ初めは?」に続く

Sponsored Link