1975年、森進一さんに提供した「襟裳岬」がミリオンセラーとなり、作曲家としても不動の地位を確立した、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんは、同年には、日本初の、制作・営業・宣伝・販売などをアーティストが主導するレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立します。

「吉田拓郎は岡本おさみ作詞の「襟裳岬」を大幅に変更させていた!」からの続き

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日本初の歌手のためのレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立

吉田さんは、1975年6月、小室等さん(ベルウッド)、井上陽水さん(ポリドール)、泉谷しげるさん(エレック)、後藤由多加さん(ユイ音楽工房の社長で吉田さんのマネジメントを担当)とともに、日本初のアーティストによるアーティストのためのレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立し、「CBSソニー」から移籍しています。


(左から)泉谷しげるさん、井上陽水さん、小室等さん、吉田さん。

莫大な印税が振り込まれたのがきっかけ

というのも、吉田さんは、もともと、「エレックレコード」で月給制の契約社員からスタートしているのですが、1972年に「CBSソニー」に移籍すると、自身の作品の作詞・作曲・歌唱に対する莫大な印税が振り込まれ、とても驚いたそうで、

マネジメントをしてくれていた後藤由多加さんに聞くと、歌にはこれらの権利があることを初めて聞かされ、以来、アーティストの権利について考えるようになっていたのだそうです。

アメリカの音楽業界を知り自分たちのレーベルを持つことに憧れる

また、吉田さんは、1974年には、ボブ・ディランのバックバンドをしていた「ザ・バンド」と、一緒にコンサートツアーとレコーディングをやりたいと思い、後藤さんとアメリカ・ニューヨーク郊外のウッドストックを訪れているのですが、

その際には、「ザ・バンド」やボブ・ディランのマネージメントをやっていたアルバート・グロスマンという人が、(制作の先にある、営業・宣伝における全権を握ることができる)自分のレーベルを持っていることを知ったそうで、

後藤さんと、「ウッドストック・フェスティバル」(1969年にウッドストックで開催された大規模な野外コンサート)のような大型フェスティバルの開催や、自分たちのレーベルを持つという夢について語りあうようになっていたのだそうです。

(残念ながら吉田さんと「ザ・バンド」の共演は叶わなかったそうですが)

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当時の日本の音楽業界はレコード会社が大きな権限

ちなみに、当時の日本の音楽業界では、レコード会社が大きな権限を持っており、自分で、作詞・作曲・パフォーマンスをしているフォーク歌手でさえも、年3枚のアルバム契約の縛り、自身の意向に反したシングル版のリリース、さらには、売れなくなると容赦なく切り捨てられることが当たり前だったそうで、

アーティストは、力関係において圧倒的に不利な立場にあり、アーティストが曲の制作から広報、営業に至るまで強い権限を持つことはできなかったそうです。

(吉田さんも、当時すでに、「CBSソニー」内に個人レーベル「Odyssey」(1972年)を設立していましたが、レコーディングにおけるプロデュースの権限までしか持っていませんでした)

「吉田拓郎は小室等と泉谷しげると井上陽水でレコード会社を設立していた!」に続く

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