「安全地帯」の初期の頃(第1期)にギターとキーボードと作詞を担当し、玉置浩二さん(作曲&ボーカル)と黄金コンビを形成して、バンドの中心的存在として活躍するも、プロデビュー直前に「安全地帯」を脱退したという、武沢俊也さん。
そんな武沢俊也さんは、幼い頃から音楽的な才能を発揮し、14歳頃から独自に音楽活動を始めていたそうで、16歳の時には、玉置浩二さん、弟の武沢豊さん、進藤雅仁さんの3人組バンド(後の「安全地帯」)に加入し、作詞が苦手だった玉置浩二さんに代わって、作詞を担当していたといいます。
今回は、武沢俊也さんの、幼少期(生い立ち)から「安全地帯」のプロデビュー前までをご紹介します。
武沢俊也のプロフィール
武沢俊也さんは、1956年12月1日生まれ、
北海道旭川市の出身、
ちなみに、「武沢俊也」は本名で、「安全地帯」のギタリスト・武沢豊さんは弟(2歳年下)です。
武沢俊也は14歳頃から独自の音楽活動を始めていた
武沢俊也さんは、幼い頃から、音楽的な才能を発揮していたそうで、
1970年代の初め頃から、独自に音楽活動を開始すると、様々な音楽コンテストに出場していたといいます。
武沢俊也は16歳の時にバンド「インベーダー」(後の「安全地帯」)に加入
そして、1973年4月、16歳の時には、弟の武沢豊さん、玉置浩二さん、進藤雅仁さんの3人のバンドに加わったそうで、
バンド名を「インベーダー」として、ガロの「学生街の喫茶店」をレパートリーに演奏したそうです。
ちなみに、武沢俊也さんは、キーボード(ウーリッツァーやハモンドオルガン)を導入するほか、この頃、すでに、自身で作詞作曲をしていたそうで、
玉置浩二さんは、
完成度が高かった
と、語っています。
(ほどなくして、「インベーダー」は「安全地帯」に改名しています)
武沢俊也は16歳の時に「安全地帯」でギターとキーボードと作詞を担当していた
そんな武沢俊也さんは、バンド「安全地帯」では、玉置浩二さんの作る詞が、幼くお子ちゃまだと感じたそうで、ギターとキーボードに加えて、作詞を担当すると、作曲を担当していた玉置浩二さんとオリジナル曲をたくさん作ったそうで、
この年(1973年)から、(プロデビューを夢見るアマチュアミュージシャンたちの登竜門と呼ばれた)「ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」にも挑戦。
同年8月19日には、武沢俊也さんが作詞作曲した「ひとり」で「第6回ヤマハポピュラーソングコンテスト」北海道大会予選に初参加したのだそうです。
(「ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」には、1973年の第6回以降、第11回を除く第13回まで連続出場したそうですが、結果は残せなかったそうです)
ちなみに、当時の「安全地帯」は、
旭川で音楽をつくり、旭川で演奏し、旭川に人を呼び込む
という理念のもとに音楽活動をしていたそうですが、
同じ理念のもとに、武沢俊也さんと玉置浩二さんは、作詞・作曲で黄金コンビを形成し、曲作りの唯一無二のパートナーとして信頼を深めていったそうで、
玉置浩二さんは、2024年、NHK北海道スペシャル「安全地帯・零 ZERO ~旭川の奇跡~」でのインタビューで、武沢俊也さんについて、
今でも一番影響うけた人、武沢(豊)の兄貴だ
と、語っています。
武沢俊也が21歳の時には「安全地帯」に六土開正、矢萩渉、田中裕二が加入していた
そんな中、1977年12月、21歳の時には、かねてより親交を深めていた「六土開正バンド」が「安全地帯」に吸収される形で、六土開正さん、矢萩渉さん、田中裕二さんの3人が「安全地帯」に加入したそうで、
「安全地帯」のメンバーは、武沢俊也さん(キーボード)、玉置浩二さん(ボーカル)、宮下隆宏さん(ベース)、武沢豊さん(ギター)、大平市治さん(ドラム)、六土開正さん(キーボード)、矢萩渉さん(ギター)、田中裕二さん(ドラム)の8人編成となったのでした。
北海道時代、8人編成だった頃の「安全地帯」より。前列の右端が武沢俊也さん。
武沢俊也は21歳の時に「MFP(ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション)」を作りメンバーと共同生活を開始していた
そして、1978年2月には、田園が広がる北海道旭川市郊外の永山地区にある一軒の農機具小屋を自分たちで改修して、
「安全地帯」専用の練習スタジオ「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション」(略称MFP=”音楽を耕す農夫集団”の意)を作ったそうで、
そこで、メンバーと共同生活をしながら猛練習に励み、プロデビューを目指したのだそうです。
武沢俊也は24歳の時に「安全地帯」としてキティレコードと契約していた
すると、同年(1978年)11月頃には、キティレコード(現・ユニバーサルミュージック)が、「安全地帯」のデモテープを聴いて関心を示し、ディレクターの金子章平さんとプロデューサーの星勝さんが、相次いでMFPまで訪ねて来たそうで、
1980年10月には、キティ・レコードと仮契約を結んだのだそうです。
(1979年5月にもプロデビューの話があったそうですが、この時はバンドサウンドが未完成と判断され、一旦、保留となっていたそうです)
ちなみに、金子章平さんは、
テープを聴いて“これはいける!”と思った。直感でね。で、すぐに旭川の合宿所に会いに行ったんだ。当時の彼らはみんな長髪でね。
玉置なんかまるでパット・シモンズ(ドゥービー・ブラザーズのメンバー)みたいな雰囲気だった。で実際に演奏を聴いてみると想像以上にパンチがあってストレートで“これは絶対にいける”って確信した
と、語っています。
「武沢俊也の「安全地帯」脱退理由は?現在は郵便局?再び誘われるも断っていた!」に続く
16歳から24歳までの8年間、プロデビュー前の「安全地帯」でギターとキーボードと作詞を担当し、ボーカルと作曲を担っていた玉置浩二さんとゴールデンコンビを形成して、「安全地帯」の原点を支えていたという武沢俊也さん。 そんな …