1977年6月、ドラム未経験ながらも、玉置浩二さんに請われ、ドラマーとして「安全地帯」に加入すると、熱心にドラムの練習に取り組み、「安全地帯」の黎明期を支えた、大平市治(おおひら いちじ)さんですが、デビュー直後の1982年4月には、「安全地帯」を脱退しています。
今回は、大平市治さんが「安全地帯」を脱退した理由、「安全地帯」脱退後から他界されるまでの経歴を時系列でご紹介します。
「大平市治の若い頃は?「安全地帯」でベースからドラムに転向していた!」からの続き
大平市治は23歳の時に「安全地帯」として井上陽水のバックバンドに抜擢されていた
武沢豊さんと六土開正さんを欠き、大平市治さん、玉置浩二さん、武沢俊也さん、矢萩渉さんの4人体制となりながらも、必死でバンド活動を続けていたという、「安全地帯」ですが、
1980年10月、キティレコードと仮契約を結ぶと、1981年7月には、井上陽水さんが、「安全地帯」のスタジオ兼練習場「ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション(MFP)」を訪問してきたそうで、
この時は、井上陽水さんと2曲セッションしただけで、井上陽水さんは帰って行ったそうですが、後日、井上陽水さんから連絡があり、「安全地帯」は井上陽水さんのバックバンドに抜擢されたそうで、
「安全地帯」は、1981年8月に上京すると、9月からスタートした井上陽水さんの全国23ヶ所を回るツアーにバックバンドとして参加したそうです。
(1980年11月には、約6ヶ月間の入院の末、六土開正さんが退院して復帰し、1980年12月には、1年以上の入院を経て、武沢豊さんが復帰したそうですが、1981年3月には、武沢俊也さんが脱退したそうです)
大平市治の脱退理由は?
そして、1982年2月25日には、満を持して、ファーストシングル「萠黄色のスナップ」でレコードデビューを果たすと、同年4月には、キティレコードと正式に契約したそうですが・・・
これからという時に、大平市治さんは「安全地帯」を脱退しています。
実は、ファーストシングル「萠黄色のスナップ」の売り上げが振るわず、井上陽水さんのバックバンドを続ける中、
ある時、玉置浩二さんが、井上陽水さんに、大平市治さんのドラムについて、
ドラムがアレではね
と、言われたそうで、
玉置浩二さんは、泣く泣く大平市治さんを脱退させることを決めたのだそうです。
ちなみに、玉置浩二さんが、その旨を大平市治さんに伝えると、
大平市治さんは、
やりたい
と、引き下がらなかったそうで、
玉置浩二さんは、2024年放送のNHKの番組「安全地帯・零ZERO-旭川の奇跡-」に出演した際、
あれだけドラムをやれと言って人生変えて・・・あいつもすごい頑張ったし・・・でも言うしかなかった(このままでは井上陽水さんのバックバンドもできなくなる)
と、涙ぐみながら語っています。
(もともと、大平市治さんは、「神居十字街」というバンドでベースを演奏していたところ、玉置浩二さんに請われて、ドラムに転向し、「安全地帯」で活動するようになっていました)
「安全地帯」が活動休止と活動再開を繰り返したのは大平市治の脱退が遠因?
その後、「安全地帯」は、1983年11月に「ワインレッドの心」が大ヒットを記録し、以降、「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「青い瞳のエリス」「プルシアンブルーの肖像」など大ヒットを連発するのですが、
それは、もはや、もともと「安全地帯」が目指していた”地元の仲間だけで作る音楽”ではなく、”東京で成功する”ための音楽となっていたそうで、
メジャーバンドとなった陰で、やがて、玉置浩二さんは、バンドが完全に「安全地帯」ではなくなったことに気づき、苦悩し始めたそうで、以降、「安全地帯」は、活動休止と活動再開を繰り返すこととなったのだそうです。
大平市治は「安全地帯」脱退後も音楽活動を続けていた
一方、大平市治さんは、「安全地帯」脱退後も、地元・北海道を中心に音楽活動を続け、札幌や旭川でライブ活動を行っていたといいます。
また、2010年代には、「安全地帯」の元メンバーの武沢俊也さんと、北海道で「Choruspapa」というバンドを結成し、一緒に活動していたこともあったそうで、
武沢俊也さんは、大平市治さんについて、
バンドを和ませる、とにかく いい奴
と、語っています。
(大平市治さんは、多くの人から、「気さくで優しい人」と言われていたそうです)
大平市治の死因は?
そんな大平市治さんは、2023年12月3日に、65歳で他界されたそうですが、死因などは明かされていません。
また、この突然の訃報は、多くの関係者やファンに衝撃を与えており、
「安全地帯」の元メンバーの玉置一芳さんは、自身のSNSに、
追悼 元安全地帯ドラマー大平市治のお通夜に参列して来ました。たくさんの音楽仲間達がお別れに来ていました。私が安地脱退してすぐ大平加入。元々ベースだったけど不屈の頑張りでドラマーになりました。残したドラム音源は『萌黄色(のスナップ)』『置き手紙』『ファーストラブトワイス』だったね。合掌
と、投稿し、
玉置浩二さんは、
ありがとう お疲れ様でした
とのメッセージと共に、供花を贈っています。
大平市治のドラムの音源
それでは、最後に、大平市治さんのドラムをオフィシャルで聴くことのできる音源をご紹介しましょう。
- 「萠黄色のスナップ」(安全地帯)
- 「一度だけ」(安全地帯)
- 「抱きしめても」(安全地帯)
- 「ライヴジェラシー」(井上陽水)※カセットテープ
1982年2月25日、「安全地帯」として、ファーストシングル「萠黄色のスナップ/一度だけ」でデビューを果たすも、2ヶ月後の4月には、「安全地帯」を脱退したという、大平市治(おおひら いちじ)さん。 実は、大平市治さんは、 …