1967年、ハリウッド映画「007は二度死ぬ」でアジア人初のボンドガール役を熱演し国際的に脚光を浴びると、その後は、女優業のかたわら、司会・ラジオパーソナリティなど幅広く活躍した、浜美枝(はま みえ)さん。
そんな浜美枝さんは、段ボール工場を営むお父さんのもとに誕生するも、太平洋戦争で実家兼工場が全焼すると、お父さんは復員後、生きる気力を失ってしまったそうで、
お母さんが昼夜働く中、浜美枝さんは、幼少期からお母さんの代わりに家事をするほか、孤独で辛い少女時代を過ごしていたといいます。
今回は、浜美枝さんの生い立ち(幼少期~バスガイド時代)をご紹介します。

浜美枝のプロフィール
浜美枝さんは、1943年11月20日生まれ、
東京都の出身、
身長164センチ、
学歴は、宮内中学校卒業、
趣味は、農作業、
ちなみに、本名は、「金子三枝子」というそうです。
浜美枝はハーフ?
浜美枝さんは、日本人離れした彫りの深い顔立ちや、抜群なプロポーションから、よくハーフに間違えられるそうですが、
浜美枝さん本人がハーフであることを否定しており、純日本人です。
浜美枝は幼い頃に空襲で家が全焼していた
浜美枝さんは、東京・亀戸で段ボール工場を営むお父さんの浜田三郎さんのもと、4人きょうだい(兄1人、弟2人)の長女として誕生したそうですが、
(お父さんは、熊本県の裕福な米問屋の三男として誕生するも、その後、没落し、20歳頃に、母親(浜美枝さんの祖母)と共に上京すると、やがて、浜美枝さんのお母さんと結婚し、段ボール工場を始めたそうです)
太平洋戦争が始まり、お父さんが出征すると、浜美枝さんは、お母さんと共に三重県のお母さんの実家に疎開したそうです。
すると、その翌日、東京の家と段ボール工場は、東京大空襲で全焼したそうで、浜美枝さんとお母さんは九死に一生を得たそうですが、東京に残っていた、4~5人いた従業員さんは全員亡くなってしまったのだそうです。
浜美枝は幼い頃から母親に代わって家事をしていた
そこで、終戦後、東京に戻ってきた浜美枝さん一家は、東京・武蔵小杉の辺りにある長屋(6畳一間)に移り住んだそうですが、
お父さんは、復員後、生気が抜けたような状態になり、何年もの間、生きる気力を失って満足に働くことができなかったそうで、お母さんが昼も夜も働き生計を立てたのだそうです。
また、浜美枝さんは、働くお母さんに代わって、家事を担当していたそうで、貧しく、苦しい日々の中、かまどの火を見つめながら涙することもあったそうですが、
それでも、
ちゃぶ台で新聞を隅から隅まで黙って読む姿や、ご飯時に無言で白い瀬戸物のとっくりを傾けてお酒を飲む姿。幼い頃の記憶にある父は、とにかく無口なんです。
貧しい長屋暮らしでしたから、隣近所なんて、それはもうにぎやかなものです。ところが、父は人付き合いがない。家族とさえ、会話はほとんどありませんでした。本当に、「おはよう」とか「おやすみ」くらい。でも、私は物静かで優しい父が大好きでした。
と、語っています。
浜美枝は中学卒業後、東京急行電鉄(東急)に就職しバスガイドとして働き始めていた
そんな家庭環境の中、浜美枝さんは、孤独な日々を送っていたそうですが、14歳の時、図書館でふと手にした柳宗悦氏の本を読むと、柳宗悦氏の説く「用の美」という思想に感動したそうで、
(「用の美」とは、飾るための美しさではなく、使われるために作られた道具が持つ、健康的で誠実な美しさのことを言うそうです)
中学卒業後は、家計を助けるためと、「柳先生の足跡を訪ねて全国を旅したい」という思いから、東京急行電鉄(東急)自動車部(現在の東急バス)に就職し、バスガイド(路線バスの車掌)として働き始めたのだそうです。
(柳宗悦(やなぎ むねよし(そうえつ))氏は、「名もなき職人が作る日常の道具に、最高の美しさがある」という新しい価値観を世に広め、日本の近代美術史や思想界に大きな影響を与えた人物で、「民藝(みんげい)運動」の父と称されています。
「【画像】浜美枝の若い頃はボンドガール!現在までの出演ドラマ映画や著書は?」に続く
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1960年、17歳の時、「若い素肌」の主演で女優デビューすると、1963年には、植木等さんのサラリーマン映画「日本一」シリーズや「クレージー作戦」シリーズでヒロインを務めて人気を博し、 1967年、23歳の時には、「00 …







