1963年、23歳の時、新婚旅行で訪れた伊豆で、偶然、石原裕次郎さんと知り合うと、シャンソンの訳詞家から歌謡曲の作詞家に転身するよう助言され、歌謡曲の作詞家に転身したという、なかにし礼(なかにし れい)さんですが、
そんな中、1965年、26歳の時には、崖っぷちに立たされていたタンゴ歌手・菅原洋一さんの起死回生をかけて、シャンソンの訳詞を依頼されたそうで、渾身の訳詞作「恋心/知りたくないの」を提供したそうですが、やはり、ヒットには遠く及ばなかったといいます。
今回は、そんななかにし礼さんの、若い頃(シャンソンの訳詞家時代~歌謡曲の作詞家に転身)の経歴を時系列でご紹介します。

「なかにし礼の生い立ちは?幼少期は満洲で裕福も戦後は全財産を失っていた!」からの続き
なかにし礼は23歳の時の新婚旅行中に石原裕次郎に歌謡曲の歌詞を書くことを勧められていた
なかにし礼さんは、大学在学中の1963年に結婚したそうで、新婚旅行で、伊豆(静岡県下田市)を訪れたそうですが、下田国際東急ホテルのバーに行くと、ちょうど、映画「太平洋ひとりぼっち」の撮影のため、伊豆に滞在していた石原裕次郎さんがいたといいます。
(石原裕次郎さんは、この時、自身の会社「石原プロモーション」製作の映画第一作目である「太平洋ひとりぼっち」の撮影で伊豆に訪れていたそうで、ホテルの入口には「石原裕次郎ご一行様」と書いてあり、ホテル内は大スターがいるという緊張でみなぎっていたそうです)
そんな中、なかにし礼さんが、奥さんと夕食を終え、ざわついているロビーに出ると、奥にあるバーのカウンターに座っていた石原裕次郎さんと目が合ったそうで、
その際、指で招かれているように思えたことから、なかにし礼さんが、自分の胸を指で差して「僕ですか」という身振りをすると、石原裕次郎さんは頷(うなず)いたそうで、奥さんと2人で石原裕次郎さんのもとへ向かったといいます。
すると、石原裕次郎さんは、
お二人さんが1等賞、いっぱい飲もう
と、気さくに声をかけてきたそうで、一緒に、席についたそうですが、
(どうやら、石原裕次郎さんは、撮影を終えた後、「石原プロモーション」の専務・中井景さんと飲みながら、退屈しのぎに新婚カップルの品定めをしていたのだそうです)
石原裕次郎さんは、会話の中で、なかにし礼さんがシャンソンの訳詞を手掛けている大学生だと知ると、
よしな、よしな!シャンソンの訳詞なんぞどうだっていいじゃないか。あんなもの日本語にしたってつまんねえよ。なんで、日本の歌を書かないのよ。俺が歌っているような。ガツーン!とヒットする歌をよ
と、流行歌を書くことを勧めてきたそうで、
また、自信作ができたら、いつでも自分のところに持ってきてほしいと言ったのだそうです。
なかにし礼は24歳頃に作詞作曲した流行歌を「石原プロモーション」に持ち込むも連絡はなかった
こうして、なかにし礼さんは、石原裕次郎さんのアドバイスに従い、流行歌の作詞に取り掛かったそうで、
それから約1年後、ようやく自分でも満足のいく歌謡曲の歌詞が出来上がったため、自分でギターを弾いて曲をつけ、テープに歌を吹き込んで、石原プロモーションに自ら持ち込むと、
中井景さんと担当スタッフがテープを聴いてくれ、
いちおうお預かりしておきましょう
と、受け取ってくれたそうですが・・・
それっきりだったそうです。
なかにし礼は26歳の時にタンゴ歌手の菅原洋一の起死回生のために訳詞を依頼されていた
さておき、なかにし礼さんは、中退と再入学を繰り返していたことから、1965年春(なかにし礼さん26歳)、8年がかりでようやく大学を卒業する予定だったそうで、就職先を考え始めていたそうですが、
幼い頃は、満洲で酒造業を興して大成功を収めた両親のもと、裕福な家庭で音楽や芸能が好きな家族の影響を受けて育つも、 1941年に太平洋戦争が起き、1945年、7歳の時、満洲がソ連軍の侵攻を受けると、逃避行の末、終戦後、よう …
そんな中、レコード会社「ポリドール・レコード」(現・ユニバーサル)のディレクター・松村慶子さんから電話があり、タンゴ歌手の菅原洋一さんが歌唱するためのシャンソン「恋心」とB面用の「たそがれのワルツ」の日本語訳を依頼されたといいます。
(「たそがれのワルツ」の原曲は、「I really don’t want to know」というのですが、すでに日本語の歌詞がついており、「たそがれのワルツ」と呼ばれていたそうです)
というのも、当時、タンゴ歌手だった菅原洋一さんは、レコードを出しても全く売れず、契約打ち切り寸前のピンチに立たされていたそうで、
ディレクターの松村慶子さんが、起死回生の一手として、当時、注目されていたシャンソンの名曲「恋心」を菅原洋一さんに歌わせることにしたのだそうです。
また、「恋心」は、すでに大御所の越路吹雪さんや岸洋子さんがカバーすることが決まっていたそうですが、競作に持ち込むことで話題を盛り上げ、菅原洋一さんの知名度を上げる作戦だったそうで、
松村慶子さんは、ベテラン勢との差別化を図るため、あえて無名の若手だったなかにし礼さんを抜擢し、新鮮なセンスに賭けたのでした。
なかにし礼は26歳の時に「知りたくないの」を閃いて作詞していた
そんななかにし礼さんは、ベテランの越路吹雪さんや岸洋子さんが、巨匠・永田文夫氏による”女性目線”の歌詞だったことから、菅原洋一さんの歌詞は、”男性目線”で「恋心」(A面)の訳詞をしたそうですが、
「たそがれのワルツ」の原曲(「I really don’t want to know」)を聴いているうち、「知りたくないの」(B面)という歌詞も閃(ひらめ)き、書き上げたそうで、
なかにし礼さんは、後に、その時のことを、
千曲の訳詞をやっていて一度も感じたことのない歴然たるひらめき――――それは私にとって一千分の一の歓喜としか表現できない戦慄(せんりつ)すべき出来事でした。
と、語っています。
なかにし礼が27歳の時に訳詞を手掛けた「恋心」は全く売れなかった
ただ、ヒットしたのは、岸洋子さんが1965年10月にリリースした「恋心」で、菅原洋一さんがリリースした「恋心」は、話題にはなるも、売上では遠く及ばなかったそうです。
また、この時、菅原洋一さんとそのスタッフが密かに期待を寄せていた、(カントリー曲をカバーした)B面の「知りたくないの」も、大きな反応もなく終わってしまったのだそうです。
この結果に、なかにし礼さんは、最後のチャンスをものにできなかった菅原洋一さんは、近い内にレコード会社から切られるのではないかと、菅原洋一さんの身を案じたそうですが、
それと同時に、結果が出なかったのは自分の書いた歌詞が未熟だったせいだと、深い敗北感に打ちひしがれたそうです。
なかにし礼は27歳の時に心臓発作で45日間も入院していた
そんな中、なかにし礼さんは、1965年11月半ば、27歳の時、真夜中に激しい心臓発作に襲われたそうで、
奥さんが家の近くの救急病院に電話をすると、医師が駆けつけてくれ、「極度の疲労かストレスによる自律神経失調症、およびそれが引き起こした狭心症」と診断され、すぐにニトログリセリンを舐めさせられて、腕に注射されると、痛みが嘘のように引いていったそうですが、
(この頃、なかにし礼さんは、多忙だったうえ、大きなプレッシャーも感じていたそうです)
すぐに入院することを勧められ、11月15日から入院したそうで、結局、45日間も入院し、ようやく退院することができたのだそうです。
「【画像】なかにし礼の若い頃から死去までの代表曲や著書ほか経歴は?」に続く
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1966年、初めて作詞を手掛け、「田代美代子とマヒナ・スターズ」に提供した「涙と雨にぬれて」が大ヒットを記録すると、これがきっかけで、作詞家として注目されるようになり、以降、歌手やアーティストに4000曲もの歌詞を提供し …



