幼い頃は、満洲で酒造業を興して大成功を収めた両親のもと、裕福な家庭で音楽や芸能が好きな家族の影響を受けて育つも、

1941年に太平洋戦争が起き、1945年、7歳の時、満洲がソ連軍の侵攻を受けると、逃避行の末、終戦後、ようやく引揚船で日本への帰国を果たしたという、なかにし礼(なかにし れい)さんは、

日本でも実家を失い、小学校時代は、青森と東京を行ったり来たりしたそうで、1953年、15歳の時、ようやく、東京でお兄さんの家族と暮らすようになるも、やがては、お兄さんとケンカして家出するほか、お金がなく、大学の中退と再入学を繰り返したといいます。

今回は、そんななかにし礼さんの生い立ち(幼少期から大学時代まで)をご紹介します。

なかにし礼

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なかにし礼のプロフィール

なかにし礼さんは、1938年9月2日生まれ、
満洲国・牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)の出身、

学歴は、
青森市立古川小学校
⇒東京都立九段高等学校卒業
⇒立教大学文学部英文科中退⇒再入学⇒中退
⇒立教大学文学部仏文科再入学⇒卒業

ちなみに、本名は、「中西禮三(なかにし れいぞう)」というそうです。

なかにし礼の父親と母親は共に裕福な家庭の出身だった

なかにし礼さんの父・政太郎さんと母・よきさんは、共に北海道小樽の出身で、政太郎さんは、酒屋「中西酒店」の長男、よきさんは、「坂下石店」の長女として、2人共、何不自由ない豊かな家庭で育ったといいます。

また、よきさんは、地元で「小樽小町」と称賛されるほどの美貌の持ち主だったそうで、ただ美しいだけでなく、当時の女性解放運動をリードした平塚らいてうに心酔する、非常に進歩的な考えの持ち主だったそうです。

そんなよきさんは、流行の洋服をまとい、夜にはダンスホールへ繰り出すなど、自由奔放な生活を楽しんでいたそうで、恋人もいたそうですが、

ある時、偶然のきっかけで、政太郎さんと出会うと、政太郎さんの持つ、おおらかなで執着のない、ひょうひょうとした人柄に惹かれたそうで、1922年、政太郎さんと結婚したのだそうです。

その後、男の子1人(なかにし礼さんの兄)と女の子1人(なかにし礼さんの姉)が誕生し、小樽で平穏な日々を送っていたそうですが、

そんな中、知り合いの軍人の勧めにより、1934年、満洲に渡り、造り酒屋を始めると、見事、大成功したのだそうです。

なかにし礼が幼い頃は裕福な家庭(満洲)で何不自由なく育っていた

こうして、満州の名士となった政太郎さんは、いつもカバンに札束をいっぱい入れて遊びに行き、よきさんは、一日として同じ服を着ることなく、ダンスホール通いするなど、中西家は贅沢三昧の毎日を過ごしていたそうで、

そんな両親のもと、なかにし礼さんは、3人きょうだい(14歳上の兄と7歳上の姉)の末っ子として誕生すると、何不自由なく育ったそうで、

(満洲で1、2を争う裕福な家庭だったそうです)

なかにし礼さんは、

僕は、使用人にかしずかれて王子様のような生活だった

と、語っています。

また、お父さんは謡、お母さんは長唄、お兄さんはアコーディオン、お姉さんは日舞をたしなみ、家族全員、歌舞伎の大ファンという、音楽や芸能にあふれた家庭環境だったそうで、なかにし礼さんは、知らず知らずのうちに、影響を受けて育ったそうです。

(幼い頃は、東京で大学生活を送っていたお兄さんの正一さんが、春休みや夏休みに満洲に帰ってきて、得意のアコーディオンでタンゴを弾くのを聴いたそうで、その華やかな音楽に、まだ見たことも聞いたこともない異郷(日本)に思いを馳せたのだそうです)

なかにし礼は6歳の時にソ連軍侵攻により満洲から命からがらハルビンに逃げ延びていた

しかし、1941年に太平洋戦争が始まり、終戦間近となる1945年8月(なかにし礼さん6歳の時)には、満洲にソ連軍の侵攻が始まると、生活は一変。

お父さんは商用で留守、お兄さんは特攻隊に配属されて不在だった中、お母さんが、有り金を全て帯に包み、なかにし礼さんとお姉さんを連れて、ツテでハルビン行の軍用列車に乗り込んだそうですが、

この軍用列車にソ連戦闘機が迫ってくると、

お母さんは、

ここに隠れていなさい

と、なかにし礼さんを座席の下に潜り込ませ、別に逃げたそうで、

(列車は機銃掃射に襲われ多数の軍人が亡くなったそうです)

その後、お母さんは、戻ってきたそうですが、この惨状を見て、

これからは母さんの言うことも信じてはいけない。自分で逃げ、生きなさい

と、諭されたそうで、

なかにし礼さんは、お母さんと別れて、一人で逃げたのだそうです。

ちなみに、なかにし礼さんは、このお母さんの言葉を生涯に渡って何度も思い出したそうで、

母のあの言葉に目覚めて以来、自分で考え、決断していくようになった。今も変わりありません

と、語っています。

そして、なかにし礼さんは、命からがらハルビンまで逃げ、1年余り、避難民としてハルビンで過ごしたそうですが、その間、街頭に立って、タバコを売るなどして日々をしのいだのだそうです。

また、1945年9月には、ハルビンでお父さんと再会したそうですが、お父さんはソ連軍に連行されてしまい、2ヶ月後に戻ってくるも、健康を害し、間もなく他界してしまったそうです。

なかにし礼は8歳の時に引揚船で日本に帰国していた

その後、なかにし礼さんは、ようやく日本への引き揚げ船に乗ると、引揚船の中で、日本の流行歌「りんごの歌」を知ったそうですが、

生きるか死ぬかの修羅場をくぐり抜け、人間の嫌な部分を散々見てきたことから、「りんごの歌」の無邪気さに、日本は自分たちのことは忘れてしまったのかと、とても悲しい気持ちになったといいます。

そして、この日本の流行歌に感じた距離感が、後に、クラシック音楽に傾倒していくきっかけとなったのだそうです。

なかにし礼は8歳の時に北海道小樽の父親の実家で暮らし始めるも兄の事業の失敗で実家を失っていた

そして、1946年10月、日本に帰国したなかにし礼さんは、北海道小樽のお父さんの実家に身を寄せたそうですが・・・

復員したお兄さんが、勝手におばあちゃんの家を抵当に入れてニシンの網を購入し、取れたニシンを輸送船を借りて秋田まで売りに行ったところ、大量のニシンを腐らせてしまって、ほとんど売り物にならず、担保の実家を失ってしまったといいます。

(なかにし礼さんのお兄さんは、立教大学から学徒出陣して陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたそうですが、すぐに終戦となったそうで、終戦後、お兄さんは、一攫千金の夢に取り憑かれ、博打のようにコロコロと職業を変えていたそうです)

なかにし礼は15歳の時に兄を頼って上京していた

その後、なかにし礼さんは、小学3年生の時には、親類を頼って青森に移り住んだそうですが、再起したお兄さんを頼って東京に行くなど、小学校時代は、青森と東京を行ったり来たりしていたそうで、

1953年12月、15歳の時、ようやく、東京品川区大井町で、お兄さんの家族と暮らすことになったそうです。

なかにし礼は高校卒業後はシャンソン喫茶でアルバイトをしていた

そして、中学卒業後は、高校に進学したそうですが、お兄さんとケンカをして家出すると、

(お兄さんの奥さんとケンカをしたという話も)

高校の先輩からシャンソン(フランスの伝統的なポピュラー・ソング)を教えてもらい衝撃を受けていたことから、高校卒業後は、シャンソン喫茶でアルバイトを始めたそうで、(美輪明宏さんが在籍していた)シャンソン喫茶「銀巴里」にも熱心に通うようになったそうです。

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なかにし礼は大学に進学するも貧乏で中退⇒再入学⇒中退⇒再入学していた

ただ、しばらくすると、お兄さんから呼び出され、和解すると、費用を出してくれるというので、1958年、20歳の時に、立教大学文学部英文科に進学したそうですが・・・

またしても、お兄さんが事業に失敗したことから、大学を中退して、シャンソン喫茶でのアルバイトを続け、やがて、フランス語を学んで、シャンソン歌手のためにシャンソンの訳詞を始めると、

有名な歌手からも訳詞を頼まれるようになったそうで、それでお金を貯め、1959年、21歳の時には、大学に再入学したそうですが・・・

またしても、学費が払えず、中退したといいます。

しかし、1961年、今度は、同じ立教大学文学部の仏文科に再入学すると、1965年には、無事、立教大学文学部仏文科を卒業したのだそうです。

「なかにし礼の若い頃は?石原裕次郎に訳詞家から作詞家への転身を助言されていた!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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