1970年6月5日、17歳の時、「一度だけなら」でレコードデビューすると、またたく間に大ヒットを記録して、一躍、人気歌手の仲間入りを果たし、その後は、俳優として活動し、1987年、テレビドラマ「水戸黄門」 の「柘植の飛猿」 役でブレイクした、野村将希(のむら まさき)さん。
そんな野村将希さんは、幼い頃から野球が好きで、将来は野球選手になることを夢見ていたそうですが、高校1年生の時にケガが原因で野球を断念すると、野球の次に好きだった歌を仕事にしようと歌手を志したそうで、すぐに高校を中退して上京したといいます。
今回は、そんな野村将希さんの、幼少期(生い立ち)からスカウトされて芸能界入りするまでをご紹介します。

野村将希のプロフィール
野村将希さんは、1952年11月13日生まれ、
福岡県北九州市の出身、
(兵庫県尼崎市育ち)
身長181センチ、
体重80キロ、
靴のサイズは、27センチ、
血液型はA型、
学歴は、
大阪私立加島小学校
⇒尼崎市立尼崎産業高等学校中退
特技は、
乗馬、筋トレ、ゴルフ、野球、
だそうです。
野村将希は在日韓国人?本名は?
野村将希さんは、在日韓国人で、本名は「朴昌基」、通り名は「野村昌基」だったそうで、
雑誌、「マスコミひょうろん」(1976年12月号)に、
1974年6月6日 住所 東京都世田谷区 野村昌基(朴昌基)昭和二十七年十一月十三日生 野村将希(のむら・まさき、旧芸名:野村真樹、1952年11月13日 – )と生年月日が一致している。『マスコミひょうろん 1976年12月号』(マスコミ評論社)
と、記載されており、
1974年6月6日に帰化していることが官報に掲載されていたそうです。
また、「マスコミひょうろん」内の赤坂騎士氏による「なぜ韓国人タレントが㊙なのか」という記事によると、野村将希さんは、サンミュージックの創業者・相澤秀禎さんの養子になっているそうですが、どのような経緯で養子になったのかなどは不明です。
野村将希は幼い頃に父親がラーメン屋を廃業し職を求めて全国各地を転々としていた
野村将希さんは、ラーメン屋を営むお父さんのもと、7人きょうだいの末っ子として誕生すると、野村将希さんが幼い頃は、実家の商売はとても繁盛していたそうですが、
無理な事業拡大が原因で廃業すると、その後、お父さんは、職を求めて全国各地を転々としたそうで、野村将希さんは、小学校を3回、中学校を2回も転校したそうです。
それでも、野村将希さんは、少年時代はわんぱくなガキ大将で、学校ではお調子者でクラスの中心的存在だったそうです。
野村将希は小学~高校時代は長嶋茂雄に憧れて野球選手を目指すもケガにより断念していた
また、野村将希さんは、運動神経も抜群だったそうで、長嶋茂雄さんに憧れて、小学生の時から野球を始めると、少年野球チームのキャプテン兼キャッチャーとして活躍し、
その後、プロ野球選手を目指して尼崎市立尼崎産業高校に進学し、野球部に入部すると、練習に明け暮れる毎日を送っていたそうですが、
無理な練習がたたって、高校1年生の時に肘と肩を負傷してしまい、このケガが原因で、プロ野球選手になる夢は断念したそうです。
野村将希は歌手を目指し高校を中退して上京していた
そんな野村将希さんは、幼い頃から歌を歌うことが好きでだったそうですが(のど自慢大会に出場したこともあったそうです)、自分の将来を考えた時、野球の次に好きな歌の世界で勝負しようと思い立ったそうで、
すぐに高校を中退すると、「自分は歌手になる!」と周囲に宣言し、1969年、16歳の時、歌手を目指し、単身で上京したのだそうです。
野村将希は16歳の時、靴磨きのバイト中に相澤秀禎にスカウトされていた
そして、上京後は、(無計画で)泊まるところがなかったことから、友達のアパートに転がり込んだそうですが、
まもなく、生活費を稼ぐため、群馬県の高崎競馬場で住み込みで厩務員のアルバイトをするようになったそうです。
ただ、3か月ほど経った頃、
そうだ、俺は歌手になるために上京したんだった
と、ハッとし、東京の友達のアパートに戻ったそうで、
その後、新宿でアルバイトを探していると、ちょうど、靴屋「日本堂」が求人募集していたことから、すぐに応募すると、採用されたそうで、小田急の地下名店街で靴磨きのアルバイトを始めたのだそうです。
すると、ある日、フラッと店に入ってきた男性に、
君、映画に興味はないかね?
と、言われ、名刺を差し出されたそうで、
(その男性は「サンミュージック」の社長・相澤秀禎さんだったそうです)
野村将希さんが、
歌を歌いたい
と、答えると、
相澤秀禎社長には、
今度、事務所に遊びに来なさい
と、言われたのだそうです。
ちなみに、相澤秀禎社長は、後年、野村将希さんをスカウトした理由について、
(野村将希さんの)笑顔が印象的だった
と、語っています。
野村将希は16歳の時「サンミュージック」の事務所に行った際、森田健作に声をかけられ「スターになれる」と舞い上がっていた
さておき、後日、野村将希さんが、半信半疑で四谷にあった事務所を訪ねると、そこには、森田健作さんがいたそうで、びっくりしたそうですが、
(森田健作さんは、大量のファンレターに一つ一つ目を通し、返事を書いていたそうです)
森田健作さんは、野村将希さんと目が合うと、
頑張れよ
と、声をかけてくれたそうで、
野村将希さんは、
当時の俺は思いこみが人一倍激しかったので、森田さんと目が合った時に『これで俺はスターになれる』って思った
と、突然、転がり込んできた幸運に舞い上がったのだそうです。
(森田健作さんは、「サンミュージック」のタレント第1号で、野村将希さんは、第2号だったそうです)
そして、野村将希さんは、住む家がなく、友達の家に居候している状態だったため、相澤秀禎社長の自宅に下宿するようになったそうで、相澤秀禎社長とその奥さんに寝食の面倒もみてもらったのだそうです。
「【画像】野村将希の若い頃から現在までの出演ドラマ映画シングルほか経歴は?」に続く
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1970年、17歳の時、デビューシングル「一度だけなら」が「第12回日本レコード大賞新人賞」を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出場を果たした、野村将希(のむら まさき)さんですが、 以降、全くヒットせず、仕事が減少したそうで …







