1970年、17歳の時、デビューシングル「一度だけなら」が「第12回日本レコード大賞新人賞」を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出場を果たした、野村将希(のむら まさき)さんですが、
以降、全くヒットせず、仕事が減少したそうで、そんな状況を打破すべく、ミュージカルを学ぶため、アメリカ留学したといいます。
今回は、そんな野村将希さんの、若い頃(デビュー以降)から現在までの経歴を、ヒット曲や代表作を交えて時系列でご紹介します。また、最後には、出演作品(映画、テレビドラマ)一覧やディスコグラフィー(シングル)もご紹介します。

「野村将希は在日韓国人?生い立ちは?高校中退で上京!靴磨き中スカウトされていた!」からの続き
野村将希は17歳の時にデビュー曲「一度だけなら」が大ヒット
小田急の地下名店街で靴磨きのアルバイト中、「サンミュージック」の相澤秀禎社長にスカウトされた野村将希さんは、それから半年後の1970年には、デビューの話が決まったそうですが、
ある日のこと、野村将希さんが、もともと好きだった「内山田洋とクールファイブ」の「一度だけなら」という曲を口ずさんでいると、
たまたまそれを聴いていた相澤秀禎社長が、既に用意されていたデビュー曲を変更し、野村将希さんのために頭を下げて、「一度だけなら」を歌う許可をもらってくれたそうで、
1970年6月5日、17歳の時、「一度だけなら」でレコードデビューすると・・・
なんと、またたく間に大ヒットを記録して、「第12回日本レコード大賞新人賞」「第1回日本歌謡大賞放送音楽新人賞」「第3回日本有線大賞新人賞」など栄えある賞を総なめにし、この年の「第21回NHK紅白歌合戦」にも出場したそうで、
野村将希さんは、一躍、人気歌手の仲間入りを果たしたのでした。

「一度だけなら」
ちなみに、野村将希さんは、
何の伝手も無く上京し、1年前はごく普通の少年だった僕が、1年後、18歳を前にして、いきなり大きな夢を叶えてしまったのです。本当に強運だったと思います。
と、語っています。
野村将希は17歳の時に「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」で映画デビュー
そんな野村将希さんは、同年には、「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」で映画デビューも果たすと、
共演者の、錦野旦さん、夏夕介さんとともに「スリーN」として売り出されたのですが・・・
野村将希は18~26歳頃までヒットせず仕事が激減していた
その後は、シングルを出しても、伸び悩み、デビューから9年が経つ頃には、すっかり仕事も減ってしまったといいます。
そんな中、事務所には心配されたそうですが、当の野村将希さんはというと、あまり気にしておらず、(仕事がないにもかかわらず)事務所にもほとんど顔を出さず、スタッフたちに呆れられていたそうですが、
さすがに仕事がなくなると、
このままじゃ俺、芸能界からいなくなっちゃうぞ
と、不安になり、
アメリカに行って変わってやろう!
と、考えたそうです。
すると、なんと、その数日後には、相澤秀禎社長から電話があり、
アメリカ行ってミュージカルの勉強してこい
と、命じられたそうで、
同じことを考えていた野村将希さんは、二つ返事で引き受けたのだそうです。
野村将希は27歳の時に渡米し、演劇学校「AMDA」の入学試験でビリー・ジョエルの曲を歌って合格していた
こうして、野村将希さんは、1979年、27歳の時、以前、事務所にいた人を頼ってシカゴに行くと、
シカゴでの語学研修を経て、ニューヨークに渡り、ブロードウェイにある演劇学校の最高峰「AMDA」(アメリカンミュージカル&ドラマチックアカデミー)で勉強しようと、入学試験を受けたそうですが、
入学試験では、自身のレコードを見せるも、日本のプロ歌手という実績は通用せず、ビリー・ジョエルの曲を歌い、ようやく合格となったそうです。
野村将希は演劇学校「AMDA」の修了発表会で講師から狂言をするように懇願されていた
こうして、無事「AMDA」に入った野村将希さんは、英語に四苦八苦する中、厳しいレッスンは受けていたそうですが、最も苦労したのは、古典演劇のレッスンだったといいます。
そんな中、修了発表会で先生から依頼されたのは、英語での「狂言」の上演だったそうで、先生に手渡された狂言の本をみると、いくつかの演目の台本を少し短くしたものが掲載されていたそうですが、もちろん、全部英語だったことから、
野村将希さんは、
無理です!
と、断ったそうですが、
先生には、
ユーならできる!やってほしい
と、懇願されたそうで、
結局、最終的には、
もうやるしかない
と、腹をくくったのだそうです。
(この先生は、年配の女性の先生で、狂言、能、歌舞伎にとても興味があり、どうしても日本人にやってほしかったのだそうです)
野村将希は演劇学校「AMDA」の修了発表会で狂言を披露しスタンディングオベーションを受けていた
そこで、野村将希さんは、最も短い「柑子俵(こうじだわら)」という演目を、知っている限りの知識でやろうと決意して、メキシコ人とスペイン人のクラスメートに、すり足や狂言特有の節回しを必死に指導し、
修了発表会本番で、先生や生徒の家族100人以上が見守る中、狂言を披露すると、客席は総立ちのスタンディングオベーションに包まれたそうで、
(ラストでは、野村将希さんが鬼の扮装をして舞いを披露したそうです)
野村将希さんは、その時のことを、
話の最後は鬼に食べられちゃうので、僕が早変わりで鬼に扮装して出てくる演出にしたんです。顔は白塗り、頭に巻いた鉢巻きに、角に見立てた物を差し、サテンの布を羽織って両手に扇子。そして、演じた最後に舞いを見せてから見えを切り、同時に舞台を暗転にしてもらった。
その瞬間、客席がスタンディングオベーション!
「こんなにウケた!」と驚きました。終わってから先生にはハグされ、「グレート!」と感動されたほど。アメリカだからウケたわけですが、自分にとっては、これが大きな自信になったんです。
と、語っています。
野村将希は35歳の時に「水戸黄門」の「柘植の飛猿」でブレイクしていた
その後、野村将希さんは、2年半ほど、ブロードウェイで舞台を経験すると、1982年に帰国し、芸名を「野村真樹」から現在の「野村将希」に改名して、本格的にミュージカルに出演するようになったそうですが、
そんな中、マネージャーから、「水戸黄門」のプロデューサーを紹介されると、アメリカ仕込みのパフォーマンスと、留学中も継続していた筋トレによる逞しい肉体がプロデューサーの目に留まり、
こういうマッチョな忍者がいても
ということで、「柘植の飛猿」という唯一無二のキャラクターを生み出してくれたそうで、
1987年、35歳の時、「水戸黄門第17部」より、「柘植の飛猿」でレギュラー出演すると、たちまちブレイクし、ドラマの中でなくてはならない存在となったのでした。

「水戸黄門」より。(左から)由美かおるさん、照英さん、野村将希さん。
ちなみに、野村将希さんは、この役柄で意識していることを教えてください、というインタビューに対し、
「意識 と言っても、もう自分の分身みたいなものですから。でも飛猿の扮装をすると身が引き締まる思いがします。
と、語っており、
それほど、「柘植の飛猿」 とともに、生きてこられたということが分かります。
(「水戸黄門」 が放送されていた時、13年間出演していたため、その期間の4分の3くらい京都に滞在していたそうです)
野村将希は54歳の時に「スポーツマンNo.1決定戦」で「コロッセオの鉄人」としてその名を轟かせていた
また、野村将希さんは、少年時代から野球で培ってきた類まれな運動能力を武器に、数々のスポーツバラエティに出演しており、
中でも「スポーツマンNo.1決定戦」は、2007年10月時点で全19回中18回出場という高い参加率で、「コロッセオの鉄人」としてその名を轟かせているのですが、
特にパワー系種目における強さは圧倒的で、持ち前のパワーを活かした競技では右に出る者がおらず、パワー系種目の完全制覇を成し遂げるなど、力と技を兼ね備えたレジェンドとして知られています。

「コロッセオの鉄人」
野村将希の現在は?
そんな野村将希さんは、現在は、歌手、俳優として活動を続けながら、2025年4月より全国の高齢者施設を訪問する活動をしています。
また、水戸黄門のテーマに合わせて自身が考案した「野村体操」を高齢者にも伝授し、一緒に楽しんでいるそうで、
野村将希さんは、
おじいちゃん、おばあちゃんが涙を流して喜んでくれる
自分も、いずれはここ(施設)でお世話になると思っているけど、それまでは皆さんに元気を与えたい
と、語っています。
ちなみに、いつも元気な印象の野村将希さんの健康の秘訣については、
モチベーションが大事。精神と肉体は繫がっている。精神が強くなれば、肉体も強くなる。プラス思考で考える
と語っており、
食事に関しては、特にこだわっておらず、米、肉、魚、野菜をバランスよく食べるように心がけているとのことです。

野村将希のディスコグラフィー(シングル)
それでは、最後に、野村将希さんのディスコグラフィー(シングル)と出演作品をご紹介しましょう。
シングルでは、
- 1970年「一度だけなら」
- 1970年「信じてほしい」
- 1971年「歌舞伎町の女」
- 1971年「ちょっと淋しいの」
- 1971年「幸せ行きの汽車が出る」

「幸せ行きの汽車が出る」 - 1971年「何処か遠くへ」
- 1972年「船乗りになりたい」
- 1972年「夕闇の果て」

「夕闇の果て」 - 1972年「雪の炎」
- 1972年「別れのときまで」
- 1973年「雨に濡れてきた杏子」
- 1973年「すすきのの女」
- 1973年「東京八景」
- 1974年「女の純情」
- 1975年「今度逢えたら」
- 1975年「夜のブルース」

「夜のブルース」 - 1976年「わたしと踊って」
- 1976年「横浜あたり」
- 1977年「昼下りの喫茶店」
- 1977年「北のブルース」
- 1978年「ブルーグレーロマンス」
- 1983年「愛は行方不明」
- 1983年「駅」
- 1984年「つぐない」
- 1985年「今夜だけは」
- 1986年「ついておいでよ」
- 1998年「赤い花」
- 2001年「夕子」
- 2002年「アカシアの女」

「アカシアの女」 - 2004年「北の別離」
- 2005年「一度だけなら」
- 2013年「冬花火」

「冬花火」
野村将希の出演作品(映画)
映画では、
- 1970年「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」
- 1987年「刑事物語5 やまびこの詩」
- 2003年「新・影の軍団 第参章・地雷火」
- 2003年「許されざる者 獅子の血戦」
- 2004年「新・日本の首領 シリーズ」
野村将希の出演作品(テレビドラマ)
テレビドラマでは、
- 1971年「おれは男だ!」第7話
- 1972年「花嫁はおかみさん」
- 1972年「青春をつっ走れ」
- 1974年「隠密剣士 突っ走れ!第4話
- 1974年「青葉繁れる」
- 1984~1986年「私鉄沿線97分署」
- 1986年「夫婦関係」
- 1987~2003年、2011年、2015年「水戸黄門」

「水戸黄門」より。 - 1992年「好きだと言ってくれたなら」
- 1995年「水戸黄門外伝 かげろう忍法帖」
- 2002年「京都マル秘仕事人2」
- 2003年「刑事調査官 玉坂みやこ1」
- 2004年「浅見光彦シリーズ18しまなみ幻想?愛媛・今治殺人事件」
- 2004年「子連れ狼 第3シリーズ」第8話
- 2005年「国盗り物語」
- 2006年「ザ・決断!9?命をかけた!あの一瞬?ドラマと証言で決断の真相に迫る」
- 2008年「柳生一族の陰謀」
- 2013年「リーガルハイ」第5話

「リーガルハイ」 - 2013年「カメラマン亜愛一郎の迷宮推理」
- 2015年「ウロボロス~この愛こそ、正義。」
などの作品に出演しています。
野村将希 / 冬花火
「野村将希の妻は?子供は息子2人!長男は野村政孝!次男は野村祐希!孫は?」に続く
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1987年、テレビドラマ「水戸黄門」の柘植の飛猿役でブレイクすると、その後も、幼い頃から野球で培ってきた抜群の運動神経で芸能人スポーツ大会でも活躍し、「コロッセオの鉄人」と称されている、野村将希(のむら まさき)さんです …



















