1982年、「欽ちゃんの週刊欽曜日」で「欽ちゃんファミリー」の一員としてデビューし、1983年には、「僕笑っちゃいます」でレコードデビューすると、以降、2022年まで、タレント活動のほか、俳優としてもテレビドラマや映画に出演するなど、幅広く活動した、風見しんご(かざみ しんご)さん。
そんな風見しんごさんは、実は、ブレイキン(ブレイクダンス)を日本に広めた第一人者だといいます。
今回は、風見しんごさんの、ブレイキン(ブレイクダンス)との出会いから、ブレイキン(ブレイクダンス)を学ぶために渡米しテレビ番組で披露するまでの経緯、ブレイキン(ブレイクダンス)から離れた理由などを、エピソードを交えながらご紹介します。

「【画像】風見しんごの出演作品(ドラマ,映画,Vシネマ,舞台,CM)と著書」からの続き
風見しんごは映画「フラッシュダンス」でブレイキン(ブレイクダンス)を観てたちまち夢中になっていた
1982年、萩本欽一さんの「週刊欽曜日」でデビューすると、翌年1983年には、デビューシングル「僕笑っちゃいます」が大ヒットし、アイドルとして人気絶頂期を迎えていた風見しんごさんですが、
1983年、映画館で「フラッシュダンス」を観ると、劇中、(わずか数十秒程度だったそうですが)子供が路上でバックスピンをしているワンシーンを見て、
どうやって動いているんだろう
こんな踊りがあるんだ
と、ブレイキン(ブレイクダンス)の存在を知り、衝撃を受けたそうで、
たちまち、ブレイキン(ブレイクダンス)に夢中になったといいます。
風見しんごはブレイキン(ブレイクダンス)を学ぶため渡米していた
そこで、風見しんごさんは、コンサートでブレイキン(ブレイクダンス)を披露したいと思い立ったそうですが、ブレイキン(ブレイクダンス)を知っている人がいなかったそうで、
本場で学ぶしかない
と、約10日間の予定で渡米(ニューヨーク)したそうです。
風見しんごはストリートで踊る子供たちにブレイキン(ブレイクダンス)を教えてもらっていた
ただ、本場・アメリカ・ニューヨークでさえブレイキン(ブレイクダンス)を教えてくれる専門のダンス教室などはなく、
ホテルの人に、どこでブレイキン(ブレイクダンス)を見ることができるか聞くと、
タイムズスクエアのあたりで、小銭をもらうために帽子を置いた若者をたまに見るよ
と、教えてもらったそうで、
その場所に行くと、10~16歳ぐらいの子供たちが、アスファルトの上に段ボールを敷いてダンスを踊り、その前にチップを集めるための帽子や箱を置いていたそうで、それは、まさに大道芸そのものだったといいます。
そこで、風見しんごさんは、毎日のように通い詰め、片言の英語と身振り手振りで、「Please teach me」(教えてください)と言い続けると、
ついに、中南米系のグループの子供たちが「ハンドウェーブ」(腕を波のように動かすダンス)を教えてくれ、これを皮切りに、回転技などのダイナミックな「パワームーブ」から機械のような「ロボットダンス」まで、様々なダンスを教えてもらったのだそうです。
風見しんごは萩本欽一にブレイキン(ブレイクダンス)を取り入れる企画を直訴し採用されていた
こうして、本場・アメリカのブレイキン(ブレイクダンス)を習得した風見しんごさんは、ある日、「欽ちゃんの週刊欽曜日」の企画会議で、風見しんごさんにバラード曲を歌わせようという演出が持ち上がった際、
別にやりたいことがある
と、直訴すると、
デビュー間もない若手が萩本欽一さんの企画に意見をしたということで、スタッフからは罵声を浴びせられたそうですが、
萩本欽一さんに企画を聞かれ、ブレイキン(ブレイクダンス)を披露すると、萩本欽一さんは困惑しつつもその面白さを認め、ブレイキン(ブレイクダンス)に合わせた楽曲として、「涙のtake a chance」(4枚目のシングル)を用意してくれたのだそうです。

「涙のtake a chance」
風見しんごは歌番組でブレイキン(ブレイクダンス)を披露するもトラブル続きだった
こうして、風見しんごさんは、当時、国内では未知の領域だった最新のアメリカンダンスであるブレイキン(ブレイクダンス)を「涙のtake a chance」(1984年)と続く「BEAT ON PANIC」(1985年)の2曲で披露したのですが・・・
当時のテレビ界、特に生放送の音楽番組では、激しく踊りまくるパフォーマンスは前例がなかったことから、演出上のミスで照明機材に突っ込んだり、コンクリートの床で踊って筋断裂を起こしたり、ダンスに取り入れたヌンチャクがバックダンサーに当たってしまうなど、トラブル続きだったといいます。
また、新しい試みに対し、芸能界の反応は必ずしも好意的なものばかりではなく、
先輩歌手からは、
運動会みたいな曲
歌はやめた方がいい
と、冷ややかな言葉を浴びせられたこともあったといいます。
風見しんごのブレイキン(ブレイクダンス)は子供たちから熱狂的に支持されていた
それでも、その斬新なパフォーマンスは子供たちから熱狂的な支持を受けたそうで、
結果、風見しんごさんは、テレビを通じて、日本のお茶の間にまだ知られていなかったブレイキン(ブレイクダンス)を全国に広め、新しいダンス文化を定着させる大きな役割を果たしたのでした。

風見しんごは2013年に舞台「おちゃのこ妻妻」で久々にブレイキン(ブレイクダンス)を披露していた
その後、しばらくして、風見しんごさんは、ブレイキン(ブレイクダンス)から離れていたのですが、
2013年、萩本欽一さんの喜劇「おちゃのこ妻妻」に出演した際、キレのあるムーンウォークとロボットダンスを披露すると、全盛期と変わらないその動きに会場から大きな拍手が起こったといいます。
(これをきっかけに、再び風見しんごさんのブレイキン(ブレイクダンス)がテレビで観られるのではと期待が寄せられましたが、その後、風見しんごさんは、ブレイキン(ブレイクダンス)をメディアなど公の場では披露していないようです)

風見しんごがブレイキン(ブレイクダンス)から離れた理由とは?
そもそも、なぜ、風見しんごさんは、ブレイキン(ブレイクダンス)から離れたのでしょうか。
実は、当時の音楽業界では、頻繁に新曲を出すのが当然で、世間からは、同じダンスの継続よりも「次に披露する新しいパフォーマンス」が求められていたからだといいます。
また、風見しんごさん自身も、バラエティやドラマなど売れっ子タレントとしての活動が増え、ダンスの練習時間が確保できなくなっていたのだそうです。
それでも、当時、風見しんごさんのバックダンサーだった人たちが、地道に技術の継承や大会を主催し続けたことから、ブレイキン(ブレイクダンス)は、単なる流行に終わらず定着し、日本は世界屈指の”ブレイクダンス大国”へと成長しており、
風見しんごさんは、
本当にうれしいし、感謝している。彼らが広めてくれたからこそ今の日本のブレイキン(ブレイクダンス)がある
と、語っています。
また、ブレイキン(ブレイクダンス)が、2024年に五輪の正式種目となった際には、
風見しんごさんは、
ブレイキンのことを知らない人たちが見てくれる絶好の機会。高齢者になってもブレイキンを踊ってくれる人が出てくればいいな
と、語っています。
(残念ながら、2028年の五輪では落選しています)

「風見しんごが萩本欽一に採用された理由とは?ブレイキンも後押しされていた!」に続く
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