1921年、日本初参加の「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)に、熊谷一弥選手、柏尾誠一郎選手と共に出場すると、いきなり、日本を準優勝に導いた、清水善造(しみず ぜんぞう)さんですが、
清水善造さんの死後からしばらく経った1977年4月26日、朝日新聞が夕刊で、清水善造さんが惜敗した決勝(チャレンジラウンド)第1日目のシングルス第2試合でのビル・チルデン戦は、本当は勝っていたという記事を掲載したといいます。
今回は、清水善造さんの「デビスカップ」での活躍と、決勝(チャレンジラウンド)第1日目のシングルス第2試合でのビル・チルデン戦の真相を、エピソードを交えつつ、ご紹介します。

清水善造は日本初出場の「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)にも選ばれていた
イギリスでは、テニスの世界最高峰の大会の一つであるウィンブルドンで、初出場でいきなりチャレンジ・ラウンド(挑戦者決定戦)の決勝まで勝ち上がり、その巧みなプレーとスポーツマンシップで各紙に称賛された清水善造さんですが、
実は、日本では、ほとんど取り上げられなかったそうで、清水善造さんは、JOC(日本オリンピック協会)からオリンピック出場も認められなかったといいます。
というのも、当時、日本では、1920年のアントワープ五輪で、熊谷一弥選手がシングルスで銀メダル、熊谷一弥選手と柏尾誠一郎選手のペアがダブルスで銀メダルを獲っていて、二人で十分と判断されていたからだそうですが、
(両メダルとも、日本人のスポーツ選手として、史上初めてのオリンピック・メダル獲得でした)
それでも、1921年、日本庭球協会(現・日本テニス協会)が誕生し、同年7月の「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)に日本チームも初出場することが決まると、清水善造さんも、熊谷一弥選手、柏尾誠一郎選手と共に代表に選ばれています。
(ウィンブルドン等の四大大会は「個人として頂点を目指す世界最高峰の大会」、デビスカップは「国を背負って戦う国別対抗戦の世界最高峰の大会」です)
清水善造は「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)で決勝(チャレンジラウンド)に進出していた
こうして、清水善造さんは、既にアメリカで活躍していた熊谷一弥選手、柏尾誠一郎選手と、アメリカ・ニューヨークで合流すると、
実は、当時の「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)は、現在とは全く形式が違い、
- 前年度優勝国(この年はアメリカ)は無条件で決勝(チャレンジラウンド)に進出
- それ以外の国が予選トーナメント(挑戦国決定トーナメント)を戦い、勝ち上がった国が決勝(チャレンジラウンド)に進出
というのものだったのですが、
(決勝(チャレンジラウンド)は、現在と同じで、第1日目:シングルス 2試合、第2日目:ダブルス 1試合、第3日目:シングルス 2試合(対戦相手を入れ替えてのエース対決など)の5試合で先に3勝を挙げた時点でその年のデビスカップの優勝国となります)
この予選トーナメント(挑戦国決定トーナメント)では、
一回戦、二回戦は、相手チームが辞退(棄権)したため不戦勝。
8月15日、シカゴ郊外オウエンシア・クラブで行われた準決勝では、インドと対戦すると、熊谷一弥選手さんとのペアで、5–0と圧倒的な勝利を収め、
9月2日、ニューヨーク郊外のフォレストヒルズで行われた、強豪・オーストラリア(一昨年のデ杯保持国)との決勝でも、「日本不利」の下馬評を、見事、覆(くつがえ)して、4–1で勝利し、決勝(チャレンジラウンド)に進出したのでした。
清水善造は「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)の決勝(チャレンジラウンド)でビル・チルデンに惜敗していた
そして、同年9月2日、ニューヨーク郊外フォレストヒルズで、世界王者アメリカとの決勝(チャレンジ・ラウンド)が行われると、
まず、第1日目のシングルス(2試合)では、1試合目は、熊谷一弥選手が、「枯草病(重度の鼻炎・花粉症の一種)」に苦しむ中、強行出場するも、ジョンストン選手に0-3(2-6,4-6、2-6)で完敗。
2試合目は、清水善造さんがビル・チルデン選手相手に、第一セットを7-5、第二セットを6-4で連取し、さらに、第三セットも、5-4でリードして、マッチゲーム(あと1ゲーム取れば勝ち)というところまで迫るも、
その後、相手のビル・チルデン選手が息を吹き返し、第三セットを5-7と逆転されて落とすと、
(その後、10分間の休憩中、ビル・チルデン選手はシャワーを浴びて着替えましたが、清水善造さんはそのままコートにとどまったそうです)
第四セットでは、急に天候が変わって冷たい風が吹き出したことが原因か、清水善造さんは右足がけいれんを起こしてしまい、足を引きずりながら最後まで戦い抜くも、第四セットも2-6、第五セットも1-6と落とし、無念の逆転負けを喫しています。
ただ、絶対王者のビル・チルデン選手をあわやというところまで追い詰めた清水善造さんは、翌日のアメリカの新聞で大絶賛され、アメリカでも、「ミスター・シミー」として人気者となっています。

清水善造さん(左)とビル・チルデン選手(右)。
ちなみに、その後、日本チームは、
- 第2日目のダブルスも、清水善造さんと熊谷一弥選手のペアでR.ノリス・ウィリアムズ選手とW.ウォッシュバーン選手のペアに0-3(2-6,5-7、4-6)で敗北
- 第3日目のシングルス(2試合)の1試合目も、熊谷一弥選手がビル・チルデン選手に、0-3(7-9、4-6、1-6)で敗北
- 第3日目のシングルス(2試合)の2試合目も、清水善造さんがビル・ジョンストン選手に1-3(3-6、7-5、2-6、4-6)で敗北
と、残り3戦も負け、全敗(0–5)に終わっています。
清水善造は「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)の決勝(チャレンジラウンド)で本当はビル・チルデンに勝っていた?
しかし、それから、50年以上経った(清水善造さんの死後)1977年4月26日、朝日新聞が夕刊で、「清水氏はチルデンに勝っていた」という大見出しで、
第1日目の2試合目、清水善造さんとビル・チルデン選手の試合について、
清水は7-5、6-4と2セットを連取。三セット目も5-4となったあと、マッチポイントを握った清水のサーブはエース(返球不能なサーブ)となってセンターラインをかすめ、敗れたと思ったチルデンが握手を求めてネットに駆け寄ると、
アジア人にデ杯(デビスカップ)を渡したくなかったネット・ジャッジ(ネット際の審判)が「レット」(サーブがネットにかすってやり直しになる判定)と宣告。これで試合が続行され、この一球を境に流れがチルデンに傾いて清水は敗れた
と、記事を掲載したといいます。
清水善造がビル・チルデンに勝利していたという証言の真相は?
ただ、後に、ノンフィクション作家の上前淳一郎氏が、著書「やわらかなボール」の中で、
この朝日新聞の記事の拠りどころとなった雑誌記事(バッド・コリンズ著「ソフトタッチよ、さようなら」)は完全な創作であり、当日、ネット・ジャッジを務めたというC・N・フォーテスク氏はそもそも実在しないことを明らかにしています。
ちなみに、清水善造さんのこの年(1921年)の世界ランクは4位に上昇しているのですが、
日本チームがデビスカップの決勝(現在の準優勝に相当)にその名を刻んだのは、2026年現在まで、この時(1921年)ただ一度きりです。
(翌1922年は、熊谷一弥選手が引退したことで、清水善造さんだけでは戦えず、日本はデビスカップを棄権。また、1923年には若手と共に再び清水善造さんはデビスカップに出場し、活躍しているのですが、アメリカゾーンの決勝でオーストラリアに敗れ、決勝(チャレンジラウンド)進出はなりませんでした)
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東京高等商業学校(現・一橋大学)で軟式テニス選手として活躍すると、卒業後、入社した三井物産では、赴任先のインド・カルカッタで硬式テニスでも頭角を現し、その後、ウィンブルドンやデビスカップでも活躍して世界ランキング最高位4 …






