東京高等商業学校(現・一橋大学)で軟式テニス選手として活躍すると、卒業後、入社した三井物産では、赴任先のインド・カルカッタで硬式テニスでも頭角を現し、その後、ウィンブルドンやデビスカップでも活躍して世界ランキング最高位4位の成績を残した、清水善造(しみず ぜんぞう)さん。
今回は、そんな清水善造さんの若い頃(大学時代)から死去までの経歴や妻・子供・孫についてご紹介します。

「清水善造の生い立ちは?中学時代にテニスを始め独特のフォームで頭角を現していた!」からの続き
清水善造は大学2年生の時には庭球部で中心選手となっていた
受験者2000人超で合格者339人という難関を、見事、突破し、一橋大学に進学した清水善造さんは、「庭球部」(テニス部)に入部すると、 校舎の煉瓦(れんが)の壁への”壁打ち”で猛練習に励んだそうで、
大学2年生の時、初試合の神戸高等商業学校(現・神戸大学)戦では、第3組の前衛(当時の対抗試合は全てダブルスだったそうです)として出場すると、清水善造さんのチームが圧勝。
「一橋会誌」で、
プレーが非常に堅実で忠実。将来がとても楽しみな真のテニスプレーヤーである
と掲載され、高く評価されたそうです。
清水善造は大学4年の時、庭球部の主将となっていた
その後も、清水善造さんは、”壁打ち”練習などを続けて力をつけたそうで、チームにとって欠かせない中心選手へと成長すると、大学4年生の時には、「庭球部」(テニス部)の主将に就任したそうで、
1911年10月には、それまで9連敗中だった宿敵・慶応義塾大学戦に稲毛正一郎選手とペアで出場すると、第1ゲームでは、稲毛正一郎選手の調子が上がらず、清水善造さんも抜かれてあっさり落とすも
第2ゲーム以降は、稲毛正一郎選手の狙いすましたコースへの打球(プレースメント)が決まるようになるほか、清水善造さんの凄まじいスマッシュと相手の陣形を打ち破る巧みな技により、3–1で逆転勝利。
見事、長年の宿敵を打ち破り、雪辱(勝利)を果たしたそうです。
ちなみに、清水善造さんは、大学時代、渋沢栄一氏の「士魂商才」という言葉を知り、
Concentration(集中)・Control(調整)・Combination(協力)・ Confidence(自信)
を、「四コン」と読みかえて、テニスや処世の方向性にしたといいます。
清水善造は大学卒業後は三井物産に入社し赴任先のインドのカルカッタで硬式テニスを始めていた
そんな清水善造さんは、大学卒業後の1912年、かねてより希望していた三井物産に入社すると、同年9月、インドのカルカッタ支店に勤務となったそうですが、
着任するとすぐに、一橋大学の先輩でもある支店長の阿部重兵衛氏に、
硬式テニスをやってみないか
と、勧められたそうで、
清水善造さんは、大学を卒業してテニスともお別れかと思っていたことから、この誘いにとても喜んだそうで、仕事が終わった後、本格的な美しい芝生のコートで、連日、硬式テニスに打ち込んだそうです。
(日本に初めてテニスが伝わったのは1878年(明治11年)だったそうですが、日本では、当時、ボールの原料となるゴムの輸入が困難だったため、独自の軟らかいボールを使った「ソフトテニス(軟式テニス)」が考案されたそうで、世界的には単に「テニス」と呼ばれるスポーツが、日本では「硬式テニス」と呼ばれたのだそうです)
清水善造は21歳の時、「第33回ベンガル州選手権」に初出場で優勝していた
すると、清水善造さんは、(フォームは美しくないものの)ぐんぐん実力をつけたそうで、
硬式テニスを始めてから3ヶ月後の1913年、「第33回ベンガル州選手権」が開催されることを知り、思い切って出場を申し込むと、
(「ベンガル州選手権」は、ローンテニス(芝生で行われるテニス)かつシングルスと、清水善造さんは両方とも初めてだったそうです)
1回戦の対戦相手は、優勝候補ナンバーワンのイギリス軍人・キングスコート少佐で、会社の人たちからは、「さすがに初戦敗退だろう」と思われていたそうですが、
キングスコート少佐は、指をケガして途中棄権したことから、清水善造さんは不戦勝で2回戦へ進出。
その後は、2回戦、3回戦と順調に勝利すると、4回戦でも、前年のチャンピオンを打ち破る大金星を挙げるほか、準決勝でも、イギリスの強豪選手に勝ち、ついに決勝に進出。
そして、決勝でも、イギリスのキャロル選手相手に、スコア3-6、6-4、6-4と、逆転勝利を収めたそうで、清水善造さんは、初出場ながら、見事、優勝を果たしたのでした。
(「ベンガル州選手権」において、アジア人として初めての優勝だったそうです)
清水善造は21歳の時、インド・カルカッタの上流社会で有名人になっていた
ちなみに、清水善造さんは、試合中ずっと笑顔を絶やさずにプレーしていたそうで、現地の新聞では、そんな姿が絶賛され、清水善造さんは、現地(カルカッタ)の上流社会で、一躍、有名人になったそうですが、
それでも、清水善造さんは、調子に乗ることはなく、
1回戦で強い相手が棄権してくれたラッキーがあったからこそ勝てたんだ
と、感謝と謙虚な気持ちをずっと忘れなかったといいます。
清水善造は26歳の時に南米選手権でも優勝していた
そんな清水善造さんは、「ベンガル州選手権」では、翌年の1914年はキングスコート選手に敗れるも、1915年~1919年には5連覇を達成するほか、
1917年、26歳の時には、出張で訪れたアルゼンチン・ブエノスアイレスで開催された南米選手権で優勝するなど、着実に実績を積み重ねていきます。

清水善造は29歳の時にウィンブルドンに日本人として初めて出場していた
そして、カルカッタ生活も8年目を迎えた1920年、29歳の時には、三井物産の内規で、3~4ヶ月のまとまった休暇がとれることになっていたことから、
この休暇を利用して、イギリスのウィンブルドン大会やアントワープで開催予定のオリンピック大会などに出場したいと考え、阿部重兵衛氏の後任として所長に就任していた一橋大学の先輩である千田牟婁太郎氏に願い出ると、
千田牟婁太郎氏は、
休暇などと云わず、ロンドン出張にしてやるから好きなだけテニスをやってこい
と、言ってくれたそうで、
早速、ウィンブルドン大会に申し込むと、出場許可が下り、同年4月、カルカッタを出発し、ロンドンから個人でウィンブルドンに出場。
(ウィンブルドン出場は日本人初だったそうです)
すると、初出場で、いきなり、チャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)の決勝まで勝ち上がる(実質ベスト4)活躍を見せています。
(翌年も出場すると、チャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)の準決勝まで勝ち上がっています)
1920年、29歳の時、テニスの世界最高峰である四大大会(グランドスラム)の一つであるウィンブルドンに、日本人として初めて出場すると、いきなり、チャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)の決勝まで勝ち上がった(実質ベ …
清水善造は29歳の時、男子国別対抗戦「デビスカップ(デ杯)」で準優勝していた
また、清水善造さんは、1921年7月には、男子国別対抗戦「デビスカップ」の日本代表にも選ばれると、いきなり、日本を準優勝に導いています。
1921年、日本初参加の「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)に、熊谷一弥選手、柏尾誠一郎選手と共に出場すると、いきなり、日本を準優勝に導いた、清水善造(しみず ぜんぞう)さんですが、 清水善造さんの死後からしばらく経った …
清水善造は32歳の時にもデビスカップ(デ杯)に出場していた
その後、清水善造さんは、1921年10月には、約10年ぶりに帰国するのですが、1922年には、ニューヨーク支店に配属され、渡米すると、
1923年、32歳の時には、再び、デビスカップに出場し、アメリカゾーンの予選トーナメント(挑戦国決定トーナメント)で大活躍。
ただ、アメリカゾーン決勝ではオーストラリアに敗れ、決勝(チャレンジラウンド)の前の、「インターゾーン(東西対抗)決勝」にも進出することはできませんでした。
(デビスカップは、この年から、アメリカゾーンとヨーロッパゾーンの2つに分けて行われ、それぞれのゾーンの勝者が「インターゾーン(東西対抗)決勝」で戦い、その勝者が決勝(チャレンジラウンド)で、ディフェンディングチャンピオンに挑戦する形へと変更されています)
清水善造は32歳の時、関東大震災復興支援のために米国で開催されたテニス大会にも出場していた
また、そんな中、同年(1923年)9月1日には関東大震災が起きているのですが、
全米各地で、日本救援のための義援金募集のテニス大会が開かれたそうで、清水善造さんはこれらの大会にも出場し、日本の復興に貢献したそうです。
(清水善造さんのライバルのビル・チルデン選手も参加したそうです)
清水善造は37歳の時に帰国すると商社マン生活に戻っていた
その後、清水善造さんは、1928年、37歳の時、家族とともに帰国すると、翌年の1929年には、2年前の1927年に設立されたばかりの三井生命に移っているのですが、
テニスでの活躍が役に立ったのか、1932年には、大阪支店長、1935年には、神戸支店長と順調に昇進しています。
清水善三泰三は45歳の時にかつてのライバルのビル・チルデン選手と再会していた
また、1936年(清水善造さん45歳の時)には、かつてウィンブルドンの決勝で激闘を繰り広げたアメリカのビル・チルデンさんが来日すると、忙しいスケジュールの合間をぬって清水善造さんに会うために神戸に来たそうで、
清水善造さんは、ビル・チルデンさんとの再会を喜びつつ、久しぶりのテニスを楽しんだそうです。
清水善造は50歳の時に次男が死去していた
しかし、1941年(清水善造さん50歳の時)に太平洋戦争が始まると、追い打ちをかけるように、同年、中学3年生だった次男を肺結核で亡くしたといいます。
(清水善造さんは、ひどく落胆したそうで、同年、妻の勧めでキリスト教の洗礼を受けたそうです)
そして、戦局が悪化するにつれ、日本では、アメリカ人を敵とみなすようになったことから、
清水善造さんも、「敵国アメリカの選手と仲良くした男」「敵国の宗教に改宗した男」と、周囲から厳しい目で見られるようになったといいます。
清水善造は54歳の時にGHQの公職追放の対象となっていた
また、清水善造さんは、1945年、終戦後、三井生命の本社に戻り、取締役に昇進しているのですが、連合国軍総司令部(GHQ)の指令に基づいて実施された「公職追放」の対象となったことから、実業界の第一線を退かされ、
(「公職追放」では、軍国主義者や国家主義者だけでなく、日本の戦争遂行を経済面で支えた主要財閥(三井・三菱・住友など)の経営者や重役も一斉に排除の対象とされたそうです)
1948年、57歳の時には、三井生命を退職し、家族と共に神戸に戻って貿易会社を立ち上げたそうです。
(この頃、清水善造さんは、心労で髪の毛が真っ白になっていたそうです)
清水善造は63歳の時、デビスカップ杯で日本代表チームの監督としてメキシコに遠征していた
それでも、清水善造さんは、1954年、63歳の時には、日本代表チームの監督として、再び世界大会(デビスカップ)に出場しているのですが、
メキシコでの試合は、2-3と惜しくも敗れています。
(その帰り道、アメリカへ立ち寄り、前年に亡くなった親友のビル・チルデンさんのお墓参りをしたそうです)
清水善造は74歳の時に脳内出血で倒れ右半身不随となっていた
また、清水善造さんは、1965年2月、74歳の時、突然、脳内出血で倒れると、右半身不随となってしまったそうですが、
あきらめることなく、リハビリを続け、その後、長女の嫁ぎ先である京都に移り住んだ後も、引き続きリハビリに励むと、奥さんと一緒に、京都御苑(きょうとぎょえん)のテニスコートの周りを散歩できるまでに回復したといいます。
清水善造は86歳で死去
そんな清水善造さんも、1977年4月12日には、86歳で他界されているのですが、
孫の清水善三さんによると、70歳を過ぎても、毎朝、自宅の壁打ち用の板に2000回ほどの壁打ちを続けていたそうで、しかも、ほぼミスをしなかったといいます。
清水善造の妻は?
清水善造さんは、ウィンブルドン大会を終えて帰国した翌年の1922年1月、同級生の紹介で知り合ったという、仙台出身の福島節子さんという女性と結婚しています。
ちなみに、この時、本社勤務が決まっていたそうですが、急遽、ニューヨーク支店勤務に変わったことから、清水善造さんは、結婚したばかりの節子さんを連れてアメリカに赴任したといいます。
清水善造の子供は?
清水善造さんは、妻・節子さんとの間に、少なくとも、息子2人(うち次男は中学3年生で死去)、娘1人がいたことが分かっていますが、
清水善造さんは、家族について公にしておらず、全員で何人いたかは不明です。
清水善造の孫は清水善三
ちなみに、清水善造さんの孫の一人は、元俳優でタレントの清水善三さんです。
清水善三さんは、幼い頃からテニスを始めると、大学時代にテニスをしている写真を見た松竹関係者にスカウトされて、主演で映画デビューし、その後、バラエティ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」に出演して人気を博しました。
また、清水善三さんが、漢字違いの「ぜんぞう」と同じ名前なのは、清水善造さんの「善造」と、母方の祖父で元海軍中尉の「良三」さんから1文字ずつとって「善三」と名付けられたからだといいます。
さて、いかがでしたでしょうか。
清水善造さんの、
- 清水善造の生い立ちは?中学時代にテニスを始め独特のフォームで頭角を現していた!
- 清水善造のプロフィール
- 清水善造は幼い頃から運動神経抜群かつ気転の利く賢い少年だった
- 清水善造は小学校時代は家から10キロ離れた問屋まで牛乳を取りに行くのが日課となっていた
- 清水善造は小学校時代は非常に成績が優秀で中学進学を強く希望していた
- 清水善造は中学高校時代は乳しぼりと牛乳配達をこなした後、学校まで片道15キロを歩いて登校していた
- 清水善造は高校時代に軟式テニス(ソフトテニス)に夢中になっていた
- 清水善造のテニスは独特のフォームもショットは正確だった
- 清水善造は難関を突破し東京高等商業学校(現・一橋大学)に合格していた
- 清水善造の若い頃はテニス世界4位!死去までの経歴は?妻は?子供は?
- 清水善造は大学2年生の時には庭球部で中心選手となっていた
- 清水善造は大学4年の時、庭球部の主将となっていた
- 清水善造は大学卒業後は三井物産に入社し赴任先のインドのカルカッタで硬式テニスを始めていた
- 清水善造は21歳の時、「第33回ベンガル州選手権」に初出場で優勝していた
- 清水善造は21歳の時、インド・カルカッタの上流社会で有名人になっていた
- 清水善造は26歳の時に南米選手権でも優勝していた
- 清水善造は29歳の時にウィンブルドンに日本人として初めて出場していた
- 清水善造は29歳の時、男子国別対抗戦「デビスカップ(デ杯)」にも出場していた
- 清水善造は32歳の時にも、男子国別対抗戦「デビスカップ(デ杯)」に出場していた
- 清水善造は32歳の時、関東大震災復興支援のために米国で開催されたテニス大会にも出場していた
- 清水善造は37歳の時に帰国すると商社マン生活に戻っていた
- 清水善三泰三は45歳の時にかつてのライバルのビル・チルデン選手と再会していた
- 清水善造は50歳の時に次男が死去していた
- 清水善造は54歳の時にGHQの公職追放の対象となっていた
- 清水善造は63歳の時、デビスカップ杯で日本代表チームの監督としてメキシコに遠征していた
- 清水善造は74歳の時に脳内出血で倒れ右半身不随となっていた
- 清水善造は86歳で死去
- 清水善造の妻は?
- 清水善造の子供は?
- 清水善造の孫は清水善三
- 清水善造はウィンブルドン初出場で挑戦者決定戦決勝まで勝ち上がっていた!
- 清水善造はウィンブルドン本番前に出場した大会で「ミスター・シミー」と呼ばれ人気を博していた
- 清水善造はウィンブルドン初出場でチャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)の決勝まで勝ち上がっていた
- 清水善造はウィンブルドンのチャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)の決勝で負けるも英国各紙に驚嘆・称賛されていた
- 清水善造がウィンブルドン初出場で見せた一打「やわらかなボール」の真相は?
- 国語の教科書に描かれた美談
- 清水善造本人のコメント
- 実際の試合で起きた真実は?
- 美談として広まった理由は?
- 清水善造は2年連続でウィンブルドンに出場するとチャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)は準々決勝まで全てストレート勝ちしてた
- 清水善造は2回目のウィンブルドンのチャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)の準々決勝でフェアプレーを激賞されていた
- 清水善造は2回目のウィンブルドンではチャレンジ・ラウンド(挑戦者決定トーナメント)の準決勝で敗退
- 清水善造はデビスカップの決勝でビル・チルデンに勝利していた?
- 清水善造は日本初出場の「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)にも選ばれていた
- 清水善造は「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)で決勝(チャレンジラウンド)に進出していた
- 清水善造は「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)の決勝(チャレンジラウンド)でビル・チルデンに惜敗していた
- 清水善造は「デビスカップ」(デ杯=国別対抗戦)の決勝(チャレンジラウンド)で本当はビル・チルデンに勝っていた?
- 清水善造がビル・チルデンに勝利していたという証言の真相は?
について、ご紹介しました。
日本人として初めてウィンブルドン選手権に出場してチャレンジ・ラウンドで決勝まで勝ち進んだほか、英国のDaily Telegraph紙による世界ランキングで4位にランクインするなど、日本のテニス界のレジェンドでありながら、戦前の選手ということもあり、一般的にはあまり知名度の高くない清水善造さん。
また、錦織圭選手のような世界で活躍する選手が出てくることで、取り上げられてほしいものです。
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1920年、日本人として初めてウィンブルドン選手権に出場し、チャレンジ・ラウンドで決勝まで勝ち進むと、1921年には、英国のDaily Telegraph紙による世界ランキングで世界4位にランクインするなど、日本のテニス …





