小学校時代より柔道で圧倒的な強さを誇り、五輪候補として将来を期待されるも、19歳の時、ケガで柔道を断念された、松山三四六(まつやま さんしろう)さん。しかし、1992年、22歳のとき、「史上最強ものまねバトル大賞」で優勝を果たすと、一転してお笑い芸人として芸能界入り。以降は、モノマネタレントとして活動されるのですが・・・
身長は?年齢は?本名は?
松山さんは、1970年7月9日生まれ、
東京都のご出身、
身長167センチ、
本名は、
秦 光秀(はた みつひで)、
旧芸名は、
松山 三四郎(読みは現在の芸名と同じ)、
学歴は、
明治大学法学部卒業、
だそうです。
柔道と相撲で激強
松山さんは、小学1年生の頃から、
柔道を始められているのですが、
とても強かったことから、
相撲の大会にも出ることを勧められると、
なんと、小学校4年生から6年生までの3年間、
相撲の全国大会で3連覇を達成。
(第66代横綱若乃花(現・花田虎上さん)とも対戦し、
勝利したこともあったのだとか)
しかも、本命の柔道でも、小学5年生と6年生の時に、
全国少年柔道大会で優勝されます。
そして、中学(明治大学付属中野中学校)に進学すると、
再び柔道に専念されるのですが、(相撲の道に進む気はなかった為)
ここでも、「第16回全国中学校柔道大会78kg以下級」で優勝と、
無類の強さを誇り、
(決勝の対戦相手は、後の世界柔道金メダリスト、
中村佳央選手だったそうです。)
1992年バルセロナオリンピック、
柔道男子78キロ級金メダリストの吉田秀彦さんも、
その時の松山さんについて、
めっちゃ強かった。
半端無く強くて、世界を狙える選手になると思っていた。
と、明かされています。
「消えた天才 超一流が勝てなかった人大追跡」より。
ケガで柔道を断念
こうして松山さんは、オリンピックの代表候補として将来を期待され、
金メダルを目指して、高校(明治大学中野付属高校)、大学(明治大学)でも、
柔道選手として鍛錬を重ねるのですが・・・
19歳の時に、「半月板」を損傷すると、
これが原因で、20歳で柔道を断念。
松山さんは、そのことについて、
ケガは克服できたはずだったけど、
初めての挫折を乗り越えられなかった。
と、明かされています。
「消えた天才 超一流が勝てなかった人大追跡」より。
「史上最強ものまねバトル大賞」で優勝し芸能界入り
その後、松山さんは、クラスの人気者だったこともあり、
お笑いの道に進むことを決意され、
1992年、明治大学在学中の22歳の時、
バラエティ番組「史上最強ものまねバトル大賞」
の素人選手権に出場されると、なんと優勝。
松山さんは、これをきっかけに吉本興業に入社して、
お笑い芸人としてデビューされたのでした。
「消えた天才 超一流が勝てなかった人大追跡」より。
現在は長野を中心にラジオパーソナリティー
そんな松山さんは、歌手の松山千春さんのモノマネが上手だったことから、
松山さんご本人から直々に「松山」と命名され、
「三四郎」は、柔道小説「姿三四郎」から、
「松山三四郎」名義で活動されるようになるのですが・・・
お笑い芸人としては、なかなか売れず、
次第に、
ココリコさんやロンドンブーツさんと仕事をしていると、
彼らは貪欲なんです。
でも、僕はなんで、こんなことをしているんだろう。
と、なんでこんな仕事ばかりさせられているんだと、
不満が募っていったそうで、
そんな折、大相撲幕内初優勝を飾った、
若乃花(1993年)がインタビューで、
「もっと稽古をしていかないといけない」
と、話しているのをテレビで見られると、
そのまったくおごらない姿に感動し、
その時、どんな世界でも頑張っていられればいいじゃないか。
この世界で何があっても頑張ろう。
と思われ、1994年に吉本興業を退社。
同年、「オールナイトニッポン」のパーソナリティで、
ラジオパーソナリティとしてデビューされたのでした。
その後、1998年に、TOKYO FMの「エモーショナルビート」
のパーソナリティを担当し、人気を博すと、
2001年からは、FM長野「346 Groove Friday」の、
メインパーソナリティを担当し、FM長野で一番の人気番組に。
以降、活動の場を長野県に移し、長野朝日放送(abn)の、
ローカル番組「ザ・駅前テレビ」でMCを担当すると、
長野県内のテレビ番組にも出演されるようになり、
その他にも、SBC信越放送「346 Bar」、
LCV(諏訪・辰野CATV)「三四六めし」に、
出演されるなど、信州を中心に様々なメディアで活動されています。
ちなみに、なぜ、松山さんが吉本興業をやめて、
長野で活動するようになったのかは分かりませんでしたが、
松山さんは、2017年にご自身のブログで、
長野へ行き、ラジオだけになった16年前の僕の、
そのラジオに電話出演して頂いたとき、生放送で、お前みたいな奴を受け入れてくれた、
信州の皆さんに恩返しをしなさい、と言われました。その言葉で、ひたすら長野県で頑張れたんです。
と、松山千春さんとの思い出を綴られているので、
少なくとも、長野に行かれた後は、
長野でのつながりを大事にされてきたようですね。
さて、いかがでしたでしょうか?
少年の頃から柔道や相撲で圧倒的な強さをほこり、
「天才」「神童」と呼ばれたにもかかわらず、
一度の怪我で挫折された松山さんは、
テレビ番組の取材に対し、
相撲と柔道の道に進まなかったことに後悔はあります。
でも、その後悔を打ち消すために仕事で頑張れる。
これからも仕事で悔しい思いをしたことを忘れず、頑張りたい。
と、語っておられるのですが、
それでも、芸能人としての才能もお持ちで、
なんとも羨ましい限り。
これからは、与えられた才能を存分に、
出し切ってほしいですね。
応援しています!!