大学在学中、早稲田大学の学生演劇に影響を受け、早稲田の学生劇団「仮面舞台」や「暫」で、劇作家・演出家として演劇活動を始められると、若い世代から絶大な支持を得た、つかこうへいさん。その後は、「青山VAN99ホール」や「新宿紀伊國屋ホール」で上演した、「ストリッパー物語」「熱海殺人事件」「蒲田行進曲」などが御礼満員となる大ヒットを飛ばし、一大「つかブーム」を巻き起こします。
本名は?学歴は?韓国人だった!
つかさんは、1948年4月2日生まれ、
福岡県嘉穂郡嘉穂町(現・嘉麻市)のご出身、
血液型はA型、
学歴は、
慶應義塾大学文学部哲学科中退、
国籍は、韓国、
本名は、
金 峰雄(キム・ボンウン)、
日本での通名は、
金原 峰雄(かねはら みねお)、
ペンネーム「つかこうへい」は、「いつか公平」をもじったもので、
「差別がない公平な世の中を望む」という意味が込められているそうです。
「早稲田大学6号館」から活動スタート
つかさんは、大学在学中、
予備校の講師のアルバイトをしていたのですが、
その生徒からお芝居の戯曲を書くように頼まれ、
それがきっかけとなり演劇の世界に入られたそうです。
その後、つかさんは、早稲田大学の学生劇団、
「早稲田小劇場」(鈴木忠志さん主宰)に強く影響を受けると、
「早稲田小劇場」の稽古場に足繁く通い、鈴木さんの、
役者へのダメ出しをノートにメモしたりしていたそうですが、
そんな中、早稲田大学の学生で、学生劇団「暫」の設立者、
向島三四郎さんと出会い、早稲田大学6号館屋上アトリエに、
連れてこられたそうで、
以降、早稲田大学6号館屋上のアトリエで、
アングラ演劇の劇作家・演出家として、早稲田大学の、
学生劇団「仮面舞台」や「暫」に参加することになったのでした。
ちなみに、つかさんの情熱あふれる稽古は、
この頃からすでに始まっていたようで、
劇団「暫」を向島さんとともに立ち上げられた知念正文さんは、
1972年秋、久しぶりに6号館のアトリエを訪れると、
つかさんの激しい稽古を目の当たりされたそうで、
何かすごい異常な稽古してるんですよね。
「何だこれは」と思って。
で、ボク創始者だから偉そうに行ったんですけど、
何かつかさんを中心に回ってるんですよ。で、
(向島)三四郎が来て、
「ちねん、すごいヤツ見つけたよ。おい稽古やろうぜ」って。
もうつかさん厳しくて、ハードだからねぇ。
だって、それこそ朝の10時から夜の10時くらいまでやってて。
あの守衛が来ますでしょ、それまでやってて、また朝からでしょ。
それを本当に毎日のようにやってましたからね。
と、語っておられました。
「熱海殺人事件」で一大つかブーム
一方、つかさんは、「暫」に参加する前から、演劇雑誌「新劇」に、
詩、戯曲、エッセイなどを寄稿されていたのですが、
1973年、「文学座」に書きおろした、
「熱海殺人事件」が上演されると、
一躍、演劇界に「つか旋風」を巻き起こし、
翌年の1974年には、当時、
史上最年少の25歳で「岸田國士戯曲賞」を受賞。
そして、このブームに乗って、劇団「暫」を離れると、
「青山VAN99ホール」や「新宿紀伊國屋ホール」に進出され、
以降、
1975年「ストリッパー物語」
「熱海殺人事件」(1973年は書き下ろしのみ)
1977年「戦争で死ねなかったお父さんのために」
1978年「サロメ」
1980年「いつも心に太陽を」
「蒲田行進曲」
など、後につかさんの代表作となる作品を、
次々と上演されると、
公演は、つかさん独特のセリフとユーモアで、
常に満員御礼の、異常ともいえる人気を博し、
一大「つかブーム」を巻き起こしたのでした。
直木賞受賞~演劇活動を停止して執筆に専念
そんなつかさんは、その後もあふれる才能はとどまることを知らず、
1981年11月に小説「蒲田行進曲」を発売されると、
翌年の1982年1月には、
なんと、いきなり「第86回直木賞」を受賞。
これがきっかけとなったのかは分かりませんが、
つかさんは、同年、突然、演劇活動を休止されると、
執筆活動に専念され、
1982年「つかへい犯科帳」
「つかへい腹黒日記」
「定本ヒモのはなし」
「寝盗られ宗介」
「つか版・忠臣蔵」
1983年「つかへい腹黒日記 (Part2)」
「青春かけおち篇」
「この愛の物語」
1984年「つか版・女大学」
「ストリッパー物語」
「嫁ぐ日’84」
1985年「つか版・男の冠婚葬祭入門」
「二代目はクリスチャン」
「井戸のある街〈第1話 婿養子〉」
1986年「広島に原爆を落とす日」
「スター誕生」
1987年「弟よ!」
「こころくん こころさん」
1988年「菜の花郵便局―大人と子供のための童話」
「幕末純情伝―龍馬を斬った女」
など、数多くの小説を発表されています。
「★☆北区つかこうへい劇団」など後進の育成に尽力
そして、1989年からは、演劇活動を再開し、
ご自身の作品の公演を重ねられていたのですが、
立派なホールは数多くあるものの、
演じる側が育っていない
という風潮をなんとかしたい、との思いから、
1994年、行政のバックアップを受けて、
「★☆北区つかこうへい劇団」(東京都北区)を設立されると、
1996年には、「大分市つかこうへい劇団」
(大分県大分市)(2000年12月解散)
1998年には、北海道北広島市に、
「つかこうへい北海道演劇人育成セミナー」を開設し、
後進の育成にも積極的に取り組まれたのでした。
ちなみに、「★☆北区つかこうへい劇団」からは、
伏石泰宏さん、石原良純さん、高田万由子さん、小西真奈美さん、
内田有紀さん、小池栄子さん、黒木メイサさん、黒谷友香さん、
など、多くの芸能人が、演技を磨くためにレッスンに参加し、
俳優として大きく飛躍されています。
死因は?
こうして、演劇界に多大な影響を与えてきたつかさんですが、
2009年夏、体調を崩し、精密検査を受けられると、
診断結果は「肺がん」。
その後、都内の病院に入院し、
抗がん剤の治療を受けられるのですが、それでも、
2010年2月に公演予定の舞台「飛龍伝2010」で、
主演を務める黒木メイサさんの稽古の様子を撮影したビデオを、
病室でチェックするなど、演劇への情熱は衰えることがなかったのですが、
「飛龍伝2010」製作発表記者会見より。
(左から)大江裕さん、徳重聡さん、黒木メイサさん、東幹久さん。
ついには、その後、終末医療で知られる、
千葉県鴨川市の亀田総合病院に転院されると、
12月には一時退院し、
2010年1月1日に遺書を書かれ、
同年7月10日、亀田総合病院で、
「肺がん」のため他界されたのでした。
遺書の内容は?
ところで、気になる遺書の内容ですが、
つかさんは、2010年4月頃に事務所関係者に預けると、
死後に開封するよう頼んでいたそうで、
その願い通り、つかさんの死後2日経った、
7月12日に遺書の全文が公開されています。
友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。
思えば恥の多い人生でございました。
先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています。
私には信仰する宗教もありませんし、
戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
通夜、葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます。
しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、
対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
今までの過分なる御厚意、本当にありがとうございます。
2010年1月1日 つかこうへい
さて、いかがでしたでしょうか?
つかさんは、生前、
僕は、表向き、差別なんてされたことはないよ、
と言うことにしてるんですが、実際はかなりありました。
特に福岡県の場合、あのころは、
韓国が『李承晩ライン』というのを設定して、
それを越えた日本の漁船をどんどん拿捕(だほ)していた頃ですし、
筑波炭坑の坑夫たちは気も荒かったですから、
かなり激しい差別がありました。
拿捕のニュースが新聞に出た日などは、
学校に行きたくないと思った程です。
と、語っておられたことがあるのですが、
つかさんの作品に、「蒲田行進曲」のヤスをはじめ、
社会的弱者のキャラクターが多く登場しているのは、
常に社会の底辺のところで頑張って生きている人に、
生きがいをもってもらいたい、光を当てて励ましたい。
という、強い思いが込められているからだったのですね。
これからもつかさんの作品は、
永遠に人々を励まし続けることでしょう。
つかさんのご冥福をお祈りしています。