高校卒業後、「文学座付属研究所」に入所すると、1年後には退所して、1971年、「冬の華」でテレビドラマデビューすると、その後も次々とテレビドラマに出演するようになった、市毛良枝(いちげ よしえ)さんは、1977年には、お昼のドラマで、一躍、ブレイクを果たします。
「市毛良枝の生い立ちは?「宝塚歌劇団」のファンで受験もしていた!」からの続き
お昼のドラマ「嫁姑シリーズ」でブレイク
高校卒業後、「文学座付属研究所」に入所し、芝居の基礎を学ぶも、演劇に熱い思いを持つ仲間にはついて行けず、1年で退所したという市毛さんですが、
1971年に「冬の華」でテレビドラマデビューすると、その後、順調にキャリアを積み、1977年には、花王のライオン奥様劇場「小さくとも命の花は」で、嫁の三津子役に起用されると、ドラマは大ヒットを記録。
市毛さんも、姑(初井言榮さん)にいびられながらも、芯の強い三津子役がハマり役となり、たちまち、お茶の間の人気を博します。
「小さくとも命の花は」より。市毛さん(左)と初井言榮さん(右)。
ヒロインに起用された理由は?
すると、この大ヒットを受け、大映テレビのプロデューサーが、市毛さんと初井言榮さんの二人を軸に、嫁姑路線のドラマを企画してシリーズ化(『嫁姑シリーズ』)すると、これがまたまた大ヒット。
その後、『嫁姑シリーズ』は、「喜劇 女の戦争」(1984)まで9作も続く人気シリーズとなっているのですが、
市毛さん本人はというと、
(「嫁姑シリーズ」は)1回30分、月~金で半年という長丁場で、10年も続けたんです。
と、語るほか、
ヒロインに抜擢された理由についても、
私なら奥様方に旦那さんを取られる心配がなかったからじゃないですか
と、やや冷めた感じで語っています。
「お嫁さんにしたいN0.1」
また、市毛さんは、この『嫁・姑シリーズ』の三津子役で、「理想の花嫁ナンバー1」「お嫁さんにしたい女優ナンバー1」に輝く人気者となり、
テレビ局には、「ウチの息子の嫁になってほしい」と、姑さんの声が殺到するほか、男性(大半が男子学生だったそうです)からの人気も高く、1980年にはファンレターが1日100通も届いたそうですが・・・
(当時、マラソン界のスターだった瀬古利彦さんも、「嫁さんにするなら市毛さんのような人」と、語っていました)
やはり、市毛さん本人はというと、当時、雑誌のインタビューで、
“この女なら、おとなしく黙ってついてきてくれそうだ“なんて思われているみたい
と、語っており、素直には喜んでいなかったようです。
女優業への葛藤
そんな市毛さんは、演劇の時と同様、テレビドラマの世界にものめり込むことができなかったようで、それが態度に現れていたのか、撮影現場ではたびたび怒鳴られ、演技力や体力のなさに引け目を感じ、女優に向いているのか悩み続けたそうで、
女優が自分の居場所とは思えず、職業を書く時は、いつも「自由業」と書くなど、いつ辞めようとずっと考えていたそうですが、
もう少しましにならなければ、やめるにやめられないと思っていた。
との思いから、女優業を続けていたのだそうです。