熱海から帰ってきたちょうどその日、「フランス座」時代にともにコントをやっていた坂上二郎さんからの電話を奇跡的なタイミングで受けた、萩本欽一(はぎもと きんいち)さん。その坂上さんから言われた内容とは・・・
「萩本欽一の初TVCMは21回連続NGで自殺を考えていた!」からの続き
坂上二郎から口説かれる
電話口では、坂上二郎さんから、
何してるの?
と、尋ねられ、
萩本さんが、
何にもしてない。今、熱海から帰って来たばかりなの
と、答えると、
坂上さんからは、
それじゃあさ、マージャンでもしようよ
と、誘われたそうで、なぜか、萩本さんは、すぐに坂上さんの家に行ったそうです。
すると、出迎えてくれた奥さんは、臨月が近く、とても大きなお腹をしていたそうで、
子供も生まれるし、オレ、このままじゃダメなんだ。何かしなくちゃいけないと思ってるんだ。
と、「フランス座」時代、あれほどまでに、萩本さんをイジメぬいていた坂上さんが、素直に苦悩を打ち明け、
一緒にやろう。欽ちゃんの若さが魅力的なんだ
と、口説いてきたのです。
ただ、萩本さんはというと、正直なところ、
面倒くさくて嫌だなあ
と、思われたそうですが、
きっぱりと断ることもできず、
1回だけなら……
と、消極的な感じで引き受ることとなったのでした。
コンビ名「コント55号」は他人が適当に?
そして、1966年10月には、「浅草松竹演芸場」の上席前座として、萩本さんが熱海で思いついたネタ「机」をされるのですが、反応は今ひとつ。
ただ、3日目、役を入れ替えると、これが大ウケ。
これに味をしめ、
じゃあ、もう1回だけ……
と、続いていくこととなり、5日目には、正式に看板に載ることになったのですが、コンビ名もまだなく、
なんでもいいから名前をつけてください
と、支配人から頼まれるのですが、
それでも、
いや、我々はすぐに解散する2人ですから。コンビ名なんてつけません
と、言い張っていると、
そういうわけにもいかない支配人は、王貞治さんのホームラン数(当時の日本記録)から適当に「コント55号」と名付けられたそうで、
その後、瞬く間に二人の噂は広がり、翌年の1967年2月14日には、日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演されると、
以降、「浅草松竹演芸場」の高座で新ネタを降ろしては、「日劇(日本劇場)」の舞台に練り上げるといったパターンで人気を博していったのでした。
ようやく坂上二郎を正式な相方と認める
やがて、テレビ演芸番組「大正テレビ寄席」への出演オファーが二人に舞い込むのですが、
萩本さんは、過去に、テレビの生CMの撮影で21回連続NGを出して降板させられたことがあり、坂上さんもまた、テレビで大失敗したことがありと、二人にとってテレビは鬼門。
それでも、二人はテレビ出演のオファーを受け、スタジオに入ると、床には位置確認のテープが貼られてあり、
スタッフから、
そこからはみ出すと、カメラワークの関係で映らなくなります
と、注意を受けます。
ただ、萩本さんは、この時、ふと、
そうだ。あのときも自分はそうやって失敗したんだった。
と、思い出し、坂上さんに、
自分の中でテレビ局の言うことを聞くという選択肢はない。二郎さんがテレビに出たいのなら、あの黄色いテープの内側に収まっていればいい。二郎さんの人生なんだから、それは二郎さんの自由だ。
と、伝えると、
その時は、坂上さんは、
テープの内側でもできる気がするんだけどな……
と、言ったものの、いざ、本番が始まると、段取りなど関係なく、二人して暴れまくったのでした。
(この時、ようやく、萩本さんは、坂上さんのことを「気が合う同志」と思えたそうです)
テレビ局の注意を無視した動き回るコントでブレイク
こうして、テレビの収録は、自分たちの納得のいくようにやったものの、テレビ局の言うことを一切聞かず、ハチャメチャをやったことから、逃げるようにして帰ろうとしていたところ、
テレビ局のスタッフが二人を追いかけて来たため、怒られるかと思われたそうですが、
君たちにマイク1本は無理だったね。残念だけど、今日のやつは放送できない。次までにマイクを5本用意しておくから。
と、言われたそうで、
この時、萩本さんは、
自分たちがテレビに出たいと思っているから、向こうの言うことをなんでも聞く。媚びることで失敗する。
逆にテレビなんて別にいいやと思っていたら、本当に自分が面白いと思っていることだけを堂々とできる。結果として上手くいく。
と、自分の判断が正しかったことを確認。
その後、激しく動き回る二人のコントはお客さんに大ウケしたそうで、このことをきっかけに、1968年には、バラエティー番組「お昼のゴールデンショー」に出演されると、二人はたちまちブレイク。
(ブレイク後、周囲の反応が)ものすごく変わった。驚いたのは僕たちに向かって女の子が「キャー!」とか言いながら走ってきたとき。「後ろに誰かいるのかな?」と思ったら、コント55号目当てのファンだったの。
信じられなかったよ。舞台に出ても「キャー!」という黄色い声援が飛ぶものだから、「うるさい!」って僕が怒鳴ったこともあったな。あんなにのべつまくなし騒がれたら、こっちが何をしゃべっても聞こえないんだもん。
と、「コント55号」はアイドル並に、絶大な人気を博したのでした。
「萩本欽一が素人参加番組の発明者だった!司会&アシスタント方式も!」に続く
「大正テレビ寄席」での坂上二郎さん(左)と萩本さん(右)。