若い頃は、「アカシアの雨がやむとき」「コーヒー・ルンバ」「エリカの花散るとき」「東京ブルース」「女の意地」「赤坂の夜は更けて」などの曲を次々とヒットさせ、昭和歌謡を代表する歌手として人気を博した、西田佐知子(にしだ さちこ)さんですが、結婚後は、仕事をセーブし、芸能界から遠ざかっています。
今回は、そんな西田佐知子さんの簡単なプロフィールと、デビューからの歩みについてご紹介します。
西田佐知子の年齢は?出身は?学歴は?本名は?
西田佐知子さんは、1939年1月9日生まれ、
大阪府大阪市城東区の出身、
学歴は、
帝国女子高等学校(現・大阪国際滝井高等学校)中退、
ちなみに、本名は「西田佐智子(読み方同じ)」(下に日がある佐〝智〟子)で、結婚後は、関口佐智子です。また、デビュー前には、「浪花けい子」の芸名で活動していたこともあったそうです。
西田佐知子は17歳の時にファーストシングル「伊那の恋唄」で歌手デビューするも鳴かず飛ばずだった
西田佐知子さんは、1954年、15歳の時に上京し、作曲家・豊田一雄氏の門下生となると、美空ひばりさん的な天才少女歌謡路線で売り出され、1956年、17歳の時には、本名の「西田佐智子」名義で、ファーストシングル「伊那の恋唄」で歌手デビューするのですが、鳴かず飛ばずだったそうです。
そして、その後も、
1956年11月「島のかよい舟」
1956年12月「母孔雀の唄」
1957年1月「てれつく踊り」
1957年2月「南國の踊り子」
1957年「東京から来た便り」
1957年「旅の踊子さん」
1959年10月「夜が切ない」
1959年11月「1対1のブルース」
1959年12月「いとはんの故郷」
1960年3月「わたしのばら(千草春美)」※この曲から「西田佐知子」名義
と、立て続けにシングルをリリースるのですが、売上はパッとしませんでした。
西田佐知子が若い頃はシングル「アカシアの雨がやむとき」が爆発的なヒットを記録していた
しかし、1960年4月にリリースしたシングル「アカシアの雨がやむとき」が、1962年に爆発的なヒットとなると、同年、ロングセールスが評価され「第4回日本レコード大賞特別賞」を受賞。西田佐知子さんは、一躍、その名を全国に知られるようになります。
(1968年には、累計売上100万枚となったそうです)
西田佐知子の物憂げで乾いた「アカシアの雨がやむとき」での歌声は安保闘争で疲弊していた若者たちの心に深く共鳴していた
というのも、「アカシアの雨がやむとき」での西田佐知子さんの物憂げで乾いた歌声は、1960年の安保当時、疲弊していた若者たちの心に深く共鳴したそうで、
現在でも、当時の世相を表現するテーマ曲のように扱われており、安保闘争のニュース映像が流れる時には、この「アカシアの雨がやむとき」がBGMとして使用されています。
ちなみに、「アカシアの雨がやむとき」は、1963年には、浅丘ルリ子さん主演で映画化もされ、西田佐知子さんも出演しています。
(映画のストーリーは安保闘争とは無関係で恋愛ものになっています)
西田佐知子は「コーヒールンバ」「エリカの花散るとき」「東京ブルース」「女の意地」「赤坂の夜は更けて」など、次々とヒットを飛ばしていた
そんな西田佐知子さんは、翌年の1961年8月にリリースしたシングル「コーヒールンバ」も大ヒットを記録し、同年末には「第12回NHK紅白歌合戦」初出場も果たすなど、人気歌謡歌手の仲間入りを果たすと、
1963年には「エリカの花散るとき」、1964年には「東京ブルース」、1965年には「女の意地」「赤坂の夜は更けて」など、次々とヒットを飛ばし、
1967年6月25日には、レコード売り上げ1000万枚突破記念曲「たそがれの恋」を臨時発売、同年9月30日には、レコード売上1000万枚突破記念チャリティ・リサイタルを東京厚生年金会館で開催しています。
西田佐知子は関口宏と結婚後は仕事をセーブしていた
しかし、1971年3月、関口宏さんと結婚すると、その後は、仕事をセーブし、時々、懐メロ番組に出演する程度で、
歌手としての活動は、1982年まで続けているものの、同年に発売された「テレビを見ている女」がラストシングルとなっており、オリジナル作品のほか歌謡曲、演歌、ニューミュージックなどのカバー作品を発表するなど、レコーディング活動が中心となっていました。
「西田佐知子と夫・関口宏との馴れ初めは?現在は病気で会話もままならない?」に続く