1954年、中学2年生の夏、映画「緑はるかに」のオーディションを受けられると、応募者3000人の中から、見事、ヒロインに選ばれた、浅丘ルリ子(あさおか るりこ)さん。そんな浅丘さんの、生い立ち、オーディションでの秘話、歌手時代などについて調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

浅丘さんは、1940年7月2日生まれ、
満州国新京のご出身、

身長156センチ、
体重35キロ、

スリーサイズは、
上から、79-53-75、

血液型はA型、

趣味・特技は、料理、スワロフスキービーズ細工で、ともに腕前はプロ級。「スマスマ」出演時には、お手製ドレッシング、豚の角煮などを披露されています。

また、本名は、浅井信子(あさい のぶこ)で、芸名の「浅丘ルリ子」は、「緑はるかに」出演時の役名ルリコと、本名から「浅」の一字をとり、「緑はるかに」のイメージから「丘」という字をつけて、「浅丘ルリ子」となったそうです。

ちなみに、愛称はルリルリです♪

強制収容所など壮絶な幼少期

浅丘さんのお父さん浅井源治郎さんは、中央大学卒業後に大蔵省に入省されると、1933年には満州国奉天に派遣され、そこで、お母さんのちょうさんと知り合われ、結婚。

浅丘さんは、4人姉妹の次女として誕生します。

その後、お父さんは、満洲国経済部大臣秘書官を務められると、1943年には、タイのバンコクへ軍属として一家で転居されるのですが、1945年、終戦後は、メナム川の岸辺にあったバンバートン(バーンブァトーン Bang Bua Thong)抑留所に強制収容されてしまいます。

そして、翌年の1946年、日本への引き揚げが始まると、お父さんが軍属だったことから、浅丘さん一家は最優先で引き揚げられることになったのですが、何かの手違いで、最優先で引き揚げることができず。

しかし、なんと、先に出向したその船は途中で沈没。結果的に、浅丘さん一家は命拾いすることができたのでした。

その後、日本へ帰国した浅丘さん一家は、茨城県大洗町の大洗港(おおあらいこう)の近くに住む親戚の家に、しばらく身を寄せるのですが、まもなく、千葉県にある館山の引き揚げ寮に入寮されると、

浅丘さんが小学校3年生の時には、お父さんが代議士秘書の職を得たことで、一家は東京神田鍛冶町にある借家に引っ越しすることができ、ようやく落ち着かれたのでした。

ちなみに、家庭はとても貧しくも、お母さんが毛布を裁断して染め、コートを仕立ててくれるなど、貧しいながらも、創意工夫に満ちた生活を送られたのだそうです。

「緑はるかに」のヒロインで女優デビュー~「ルリ子カット」が大流行

そして、成長した浅丘さんは、1954年、中学2年生の夏、読売新聞に連載されていた小説「緑はるかに」の、映画化のヒロイン・ルリ子役の募集を見つけ、(ご両親賛成のもとで)応募されると、

11月23日に行われた面接で、約3000人の中から、見事合格。翌年の1955年、映画「緑はるかに」で鮮烈な映画デビューを果たされます。

すると、浅丘さんは、たちまち、「瞳の大きな美少女」として脚光を浴び、映画の中で浅丘さんがしていたヘアスタイル「ルリ子カット」が若い女性の間で大流行したのでした。

少女画家・中原淳一の挿絵とそっくり

実は、この小説「緑はるかに」の挿絵を描いていたのは、目が大きく、優美でハイカラな、西洋人的な美少女を描くことを持ち味とした、当時、一世を風靡した人気画家の中原淳一さんなのですが、

映画化の際、オーディションで審査員を務められた中原さんは、浅丘さんの姿に、自分の絵から抜け出してきたのではないかと感じるほどの衝撃を受けられたそうで、中原さんの強力な推薦で、浅丘さんはルリ子役をゲットすることができたのです。

ちなみに、浅丘さんは、ルリ子役を演じるにあたり、中原さんからヘアカットとアイメイクを初めて施されたときのことを、

何もかもが衝撃的だった

と、後に語っておられます。


原作「緑はるかに」。確かに当時の浅丘さんにそっくり!

日活映画のヒロインとして活躍

こうして、女優のキャリアをスタートした浅丘さんは、以降、日活の看板女優として数多くの映画に出演。

小林旭さん主演の3大アクションシリーズ、

「渡り鳥」シリーズ
「流れ者」シリーズ
「銀座旋風児」シリーズ

石原裕次郎さん主演のムードアクションシリーズ、

「赤いハンカチ」(1964年)
「夕陽の丘」(1964年)
「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)


「赤いハンカチ」より。浅丘さんと石原裕次郎さん。

など、日活アクション映画で次々とヒロインを演じ、日本映画の黄金時代を支えられたのでした。

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歌手としてもシングル「愛の化石」がヒット

また、浅丘さんは、1957年には、自身も出演された映画「踊る太陽 お転婆三人娘」の主題歌「三人姉妹マンボ(withペギー葉山、芦川いづみ)」で歌手デビューも果たされると、


「踊る太陽 お転婆三人娘」

その後も、

1963年9月「丘は花ざかり」(日活映画「丘は花ざかり」主題歌)
       「夕陽の丘」(デュエット:石原裕次郎)
     12月「霧に消えた人」(日活映画「霧に消えた人」主題歌)
1964年1月「別れのビギン」
     1月「教えて教えて」
     3月「伊豆の虹」
     4月「思い出は小雨に濡れて」
     7月「東京さすらい歌」(デュエット:石原裕次郎)
     9月「明日も愛す」
       「悲恋」

1965年1月「東京の灯」「こぶしの花の咲く頃」
     7月「姉弟」「青空さんゴメンナサイ」(デュエット:浜田光夫)(日活映画「流れる雲」主題歌)       
1966年2月「湖畔の慕情」「高原に散る花」        
     4月「山の湖」「芦ノ湖哀歌」
     6月「島原地方の子守唄」
     10月「宇目の唄げんか」
1968年3月「流れる雲」(ナショナル・ゴールデン劇場「流れる雲」主題歌)
     8月「水色の季節」(日本テレビ系連続テレビドラマ「水色の季節」主題歌)
1969年4月「心の裏窓」

と、映画の主題歌を次々とリリース。

すると、1969年8月、悲しげなメロディーと自身のハミングをバックに切々と女心を語った(演じた)25枚目のシングル「愛の化石」が、オリコンチャート最高2位を記録する大ヒット。


「愛の化石」

翌1970年には、浅丘さんと田宮二郎さん主演で同名の映画も制作されたのでした。


「愛の化石」より。(左から)田宮二郎さん、浅丘さん、高橋悦史さん。

その後、浅丘さんは、1971年1月に、石原裕次郎さんがセリフで参加した「地獄花」を発売したのを最後に、歌手活動を休止されていましたが、

時を経て、2014年9月には、小林旭さんとのデュエット曲「いとしいとしというこころ」をリリースされています。

「浅丘ルリ子の代表作はリリーの寅さん!新車の中の女ほかドラマは?」に続く

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