1960年代、「キューポラのある街」「愛と死をみつめて」など、数多くの映画で主演を務め、青春スターとして人気を博した、浜田光夫(はまだ みつお)さん。今回は、そんな浜田さんの幼少期から高校時代についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

浜田さんは、1943年10月1日生まれ、
東京都牛込区(現・新宿区)白銀町のご出身、

身長168センチ、

血液型はA型、

本名は、浜田 斌(はまだ あきら)、
(後に、姓名判断に凝った母親の勧めで「光曠」と改名されていますが、戸籍名は「斌」のままだそうです。)

学歴は、
玉川学園高等部
⇒明治大学付属中野高等学校(編入)
⇒日本大学芸術学部中退

趣味は、ゴルフ、

ちなみに、玉川学園の頃には、ジャニー喜多川さん率いる少年野球チーム「ジャニーズ」の練習等に参加されていたそうで、その後も、ジャニーさんとは交流があったそうです。

小学6年生で劇団「東童」に入団

浜田さんは、東京都神楽坂で誕生すると(一人っ子)、生後1ヶ月の時にお父さんが「結核」で他界してしまったことから、以降、お母さんに女手一つで育てられます。

そんな浜田さんは、1949年、小学1年生の時、兄弟のいない浜田さんを気遣ったお母さんに勧められ、バイオリンを習い始めたそうですが、

1955年、小学6年生の夏休み、お母さんに連れられて、劇団「東童」の児童劇「ピーターパン」を観に行くと、お芝居に興味を持ったそうで、楽屋を訪問すると、「来週から来なさい」と言われ、翌週、劇団「東童」に入団されたそうです。

(この年(1955年)、浜田さんは、岸恵子さん主演の映画「ここに泉あり」に、バイオリン教室の生徒達とともに出演されています)

おならが原因でバイオリンから演劇に転向

一方、バイオリンの方はというと、バイオリン教室のレッスン中におならをしてしまったそうで、それが、あまりにも見事だったことから、先生から、

バイオリンより良い音が出たね

と言われてしまい、

それまでのレッスンと月謝が無駄だった

と、大変なショックを受けたそうで、

このことがきっかけで、バイオリンに興味を失ってしまったそうです。

若杉光夫監督に見いだされる

さて、劇団「東童」に入団した浜田さんは、

最初の「石合戦」のとき、子役を使うので東童に行き、そして浜田君を発見した。浜田君には“陰”があった。“哀愁”と言おうか。それが気に入った。

あとで知ったのだが、彼は父に早くに死に別れ、母の手ひとつで育ったという。映画の主人公にピッタリのイメージだった。

と、入団まもなく、映画監督の若杉光夫さんに見いだされ、映画「石合戦」の主役に抜擢。

また、若杉さんは、玉川学園での浜田さんの劇も観劇されると、知り合いの玉川学園の教師で児童劇・学校劇の研究者である岡田陽さんも、浜田さんに注目されていたことから、

二人で、

浜田君をどう育てるか

について話し合ったそうで、

その結果、

しばらくは映画、テレビに出さぬようにしよう。そして充分、勉強させよう。

と、大切に育てることになったのだそうです。

(ただ、若杉さんによると、我慢できずに、浜田さんをNHKの民藝ユニット作品「メリイ・クリスマス」に出演させてしまったそうで、テレビドラマ「怪人二十面相」でも、明智探偵について歩く小林少年の役で、浜田さんを使いたくなったそうですが、あまり使わない方が本人の為と思い、この起用については我慢されたそうです♪)

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「日活」にスカウトされる

こうして、満を持し、玉川学園高等部在学中の1960年、若杉さんに勧められ、映画「ガラスの中の少女」のオーディションを受けた浜田さんは、見事、主人公・吉永小百合さんの相手役に合格。

すると、その試写を観た「日活」の常務だった江守清樹郎さんが、

他社に出さぬようにして欲しい。日活と契約せぬか。

と、若杉さんに、浜田さんを獲得したい旨を伝えてきたそうで、

若杉さんとしては、自身の劇団「民藝」で浜田さんを育てたい、その方が浜田さんの将来の為に良い、と思っていたそうですが、

日活を断って、十年後にはたして浜田君によきチャンスが訪れるかどうか?

と、迷い、最終的には、浜田さんに、

やるかい。日活へ入ってやってみるか?失敗するかもわからんよ。

と、尋ねると、

浜田さんは、

やらせてほしい。

と、答えたそうで、浜田さんは「日活」に入社することになったのでした。

「浜田光夫の若い頃は吉永小百合と恋人役多数!演技も絶賛されていた!」に続く

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