お父さんの戦死後、お母さんに女手一つで育てられた、里見浩太朗(さとみ こうたろう)さんは、やがて、歌や映画に興味を持つようになり、高校卒業後、歌手を目指し、上京されます。

「里見浩太朗の父親は陸軍憲兵隊で割腹自決?祖先は武田信玄の父の家臣だった!」からの続き

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小学4年生のとき静岡県富士宮市から松野村に疎開

お父さんが戦死された後、里見さんとお兄さんは、お母さんに連れられて、実家のある静岡県富士宮市に移り住むのですが、ほどなくして、東京での空襲が激しくなって、ほかの街も焼かれていきます。

そんな状況に、里見さんら家族は、

次に狙われるとしたら富士宮ではないか

と、不安になったそうですが、

おばあちゃんが、

そろそろ富士宮も危ないから、ウチにおいで

と、言ってくれたそうで、

里見さんが小学校4年生の時(終戦2ヶ月前)、里見さん一家は富士宮市からおばあちゃんの家がある「松野村」というところに疎開。

当初、「松野村」では、お父さんの恩給(遺族年金)と、お母さんが縫い物の内職をして家計を支えられていたそうですが、

終戦後は、お父さんの恩給が打ち切られてしまったそうで、その後は、お母さんが古着の行商などをして里見さんとお兄さんを養われたのだそうです。

(東京への爆撃は、静岡と浜松が「B29爆撃機」の通り道になっており、特に静岡連隊の拠点もあったことから、「B29爆撃機」に狙われるようになったのでは、とのことでした)

中学時代はグレるも高校時代は「NHKのど自慢」出演

しかし、中学生になった里見さんはグレてしまい、ケンカに明け暮れていたそうで、喫煙していたことがお母さんにバレて家出したこともあったのだとか。

ただ、その後、高校生になった里見さんは、映画館の客席から見るスクリーンの中で、名だたるスターが輝いて見えたことなどから、映画や歌に興味を持つようになったそうで、

高校卒業間近には、「NHKのど自慢」に出演され、伊藤久男さんの代表曲「山のけむり」を熱唱すると、見事合格。県大会まで進まれたそうで、このことがきっかけで歌手を志されたのでした。

(後に、里見さんは、コンサートのMCなどで「この合格が芸能生活への原点」と語っておられます)

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築地の魚市場で働きながら歌のレッスン

そんな里見さんは、高校卒業後、歌手を目指し上京されると、東京では、生活のため、築地の魚市場で仲卸を営んでいた叔父さんの会社に就職し、毎朝5時に起床して夕方まで働いた後、夕方から歌のレッスンを受ける毎日を送られたそうです。

ちなみに、里見さんは、高校時代は商業科に在籍されていたため、そろばん2級と簿記3級を持っていたそうで、会社では、てっきり、経理で働くものだと思っていたそうですが、

いきなり初日から、荷車で塩ザケの木箱とたらこが入ったおけを運ぶことになりまして。周りを見ると市場の石畳の上を何十台もの荷車がひしめきあっている。そして威勢のいい声や「馬鹿野郎!」と怒号が飛び交う。

なんという世界に飛び込んでしまったのかと……。でも、青春真っただ中の私には、人の活力に満ちた場所が、なんともいえない楽しいことに感じられたのです。

と、現場仕事をさせられたことで、かえって楽しく過ごせたそうで、

興味を引いたのは、仲買の叔父と料理人の小売りとの駆け引き。心と心のぶつかり合いには興奮を覚えたものです。また、まかないを任せられていたので、食材探しも私の仕事でした。

顔見知りになると、時には「おう、もってけ」とマグロ屋さんに中落ちをいただいたりする。そんな働く人たちの“厚い人情”が何よりの魅力でしたね。

と、すぐに、築地が気に入ったのだそうです。

「里見浩太朗の若い頃は東映ニューフェイス!時代劇は生活のためだった?」に続く

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