歌手を目指して上京すると、築地で働きながら、歌のレッスンを受けていた、里見浩太朗(さとみ こうたろう)さんですが、ひょんなことから、「東映ニューフェイス」の新人募集オーディションを受けることになります。
「里見浩太朗は昔は築地で働いていた!NHKのど自慢にも出場!」からの続き
「東映ニューフェイス」に合格
こうして、築地の魚市場で働きながら歌のレッスンを続けていた里見さんですが、ある時、知り合いの娘さんが、里見さんに内緒で、「第3期東映ニューフェイス」の新人募集オーディションに、里見さんの写真と書類を応募されると、なんと数万人の書類選考を通過。
その後、200人ほどで東映撮影所で試験を受けられると、最終の30人に残られたそうで、1956年には、「東映ニューフェイス」として入社。
その後、半年間、「俳優座」で演技の勉強をされると、
「東映」から、
君たちは十月になったら撮影所に行ってもらいます。時代劇をやりたい人は京都へ、現代劇をやってみたい人は大泉へ。
と、言われたそうで、
どちらか決めかねた里見さんは、
決めてくれないのですか
と、尋ねたそうですが、
自分の道は自分で決めなさい
と、言われたそうで、
里見さんは、後に、
それはもう悩みましたよ。目の前にお椀が二つあるけれど、片方には百万円、もう片方にはりんご一個が入っている、さてどちらを手に取るか。
運命や人生といったものが、これから薔薇色に輝くのか、地獄に落ちるのか、自分で選びなさいと迫られているのと同じじゃないですか。
と、明かされています。
時代劇を選択した理由とは?
結果、里見さんは、「京都撮影所(時代劇)」を選ばれているのですが、
里見さんによると、
当時の給料は六千円、実際の額はもっと多かったらしいんだけど、俳優座での勉強賃を引かれたらそのくらいでした。昭和30年代、大学での初任給が一万三千円です。僕はその半分しかもらえていなかった。
それなら、撮影所に行くようになれば給料は増えるのかと聞いてみると「二千円あがる」というんだ。八千円もらえて、源泉徴収を引かれたら七千二百円になります。そこから家賃が引かれるでしょう。
当時は東京でどんなに狭いアパートを借りても、家賃に四千円はかかりました。ワンルームアパートでそのくらいです。さらに電車賃を差っ引いたら? 食べる分のお金がなくなっちゃう……。
東京での暮らしに、そういう不安があったんです。京都に行くとしたらどうなのかと尋ねました。そこで驚いたのが、京都には独身寮があるということ! 「朝晩の食費に三千円は払ってもらうけど、六畳一間で家賃はタダ」なんて、嬉しいじゃない。
と、その理由は、時代劇とか現代劇の話ではなく、生活の不安のない方を選ばれた結果だったそうです。
京都撮影所(時代劇)を選択したのは生活のため
こうして、生活のため、「京都撮影所(時代劇)」を選ばれた里見さんですが、独身寮は、京都の三条大橋から歩いて10分くらいのところにあった「都ホテル」のすぐそばにあったそうで、
撮影所のある太秦(うずまさ)まで行くとなると、京都の東の端から西の端だったため、歩いて行くのは到底無理だったことから、バスで通う必要があったそうです。
ただ、当時の里見さんのお給料は7200円だったため、バスの定期代1ヶ月1200円と食事代の3000円を支払っても、ちょうど3000円が手元に残り、
そのうえ、「東映」は、夜間の撮影があると食券をくれたそうで、それでカレーライスを食べることができ、昼食だけは自分でなんとかしなければならなかったものの、
ヨ~シ! 京都でならなんとか生活できそうだ。
と、生活の不安が取り除かれ、京都で将来を見据えることができたのだそうです。
大川橋蔵のかつらで?
ところで、里見さんが、京都の撮影所に行って初めて浴衣の袖を通して、メークをし、羽二重を施してカツラを被った時のこと、あまりにも時代劇のかつらが似合っておらず、思わず、京都に来たことを「シマッタ!」と思われたそうです。
ただ、この時のかつら、誰のかつらかも分からないかつらを被ってしまっていたそうで、
それから1ヶ月後、きちんとした宣伝用のポートレートを撮ることになり、プロのメイクさんが、里見さんに似合うかつらを選び、メークを施してくれると、若侍然として、とてもきれいに仕上がったのだそうです。
ちなみに、撮影が終わって、かつらを外してみると、そこには、「大川橋蔵」と書いてあったそうです♪
(大川橋蔵さんはこの時、前年に歌舞伎から映画に進出したばかりですが、当時の里見さんにとっては偉大な先輩。大川さんはこの翌年、大プレイクを果たされています。)
「里見浩太朗のデビューからの出演時代劇(映画)を画像で!」に続く