「東宝撮影所」でアメリカ兵相手に通訳をしていた茂木由美子さんと結婚されると、ほかの脚本家が書いた気に入らない箇所を直してもらっているうちに、妻の脚本家としての才能に気がついた、市川崑(いちかわ こん)さんは、やがて二人で共同で執筆するようになっていきます。
「市川崑の妻は助監督時代に知り合った通訳!後に脚本家になっていた!」からの続き
共同執筆のペンネームを「和田夏十(わだ なっと)」に
ほかの脚本家が書いた気に入らない部分を、妻の由美子さんに直してもらっているうちに、やがて二人で一緒に仕事をするようになっていた市川さんは、そろそろ二人のペンネームを作ろうと考え始めたそうですが、
それよりも、
あなたはひとりでもシナリオを書けるから、シナリオライターにおなりなさいよ
と、由美子さんに、一本立ちしてシナリオライターになることを勧められたそうです。
ただ、由美子さんとしては、夫がシナリオで困っているから助けてあげようという気持ちから書いていただけで、シナリオライターになる気持ちはさらさらなく、一本立ちすることは考えていなかったそうで、
それならばと、二人の共同執筆のためのペンネームを、「和田夏十(わだ なっと)」にしようということになったそうです。
(「和田」は、由美子さんがNHKの和田信賢アナウンサーの声がとても好きだったことから名付けられ、「ナット」は、市川さんがイギリスの二枚目俳優ロワード・ドゥ・ナットのファンだったことから、当て字で夏十(なっと)とされたのだそうです)
「和田夏十(わだ なっと)」は妻専用のペンネームに
こうして、お二人は、「和田夏十」として共同執筆されるようになるのですが、
市川さんは、改めて、
脚本の才能ではとても妻に及ばない
と、実感したそうで、
再び、
あなたは1本立ちでシナリオライターをやりなさい
と、由美子さんに勧めたそうです。
すると、由美子さんは、
和田夏十という名前を使う
と、言い出したそうで、
でも、これは男の名前だから女の名前の和田夏子にしたらどうか
と、市川さんは提案されたそうですが、
由美子さんは、
女性だからいいだろう(女性には点が甘くなるという意味)と言われるので、男の名前で勝負したい
と、言ったそうで、
市川さんも、
それならば夏十を押し切ってやりなさい
と、これを了承。
こうして、市川さんの監督作品「恋人」(1951)以降、「和田夏十」は由美子さん専用のペンネームとなったのでした。
(それでも、市川さんがどうしても、由美子さんと共同執筆したい時には、、市川さんが崇拝する、イギリスの推理作家、アガサ・クリスティから拝借した「久里子亭(くりすてい)」というペンネームを使用されたそうです)
妻が公私ともにサポート
そんな由美子さんは、市川さんによると、
僕は、本来は家庭の方があの人の場所だったと思う。本人もそう言っていましたけれどもね。シナリオというのはそんなつもりではなかったのですね。
亭主が持ってくるからしょうがなしに書いてあげようかとパッと書いていた。だから自分の書斎を持っていないんですよ。食堂のテーブルで書いたり、人がいない時は応接間でちょっと書いたり、たいへん散漫的な場所で書いていましたね。
このエッセイもちょこちょこっと自分の思いついた時にメモしたり、書いたりしていたんじゃないでしょうかね。だからシナリオライターになるなんて最後まで思っていなかったですね。亭主が困っているから書くというのかな。
「東京オリンピック」(1965年3月)の時に僕は(谷川)俊太郎さんと一緒にやってもらったんだけれども、「これが最後よ」と夏十さんに言われたのですよ。事実そうでした。後は僕はもうひとりで、あるいは誰かとやっているのを傍から見ていた。意見は言ってくれたりはしていましたけれどもね。
と、シナリオライター然とせず、
しかも、
家事と育児、家の細かい掃除まで全部自分でやらないと気が済まないという人でしたね。食事でも子どもの教育にしてもそうでしたね。だから女史という感じは一つもないのですね。誰も女史なんて言わなかった。
温かい家庭の主婦というかな。彼女はきちんと何でもする。経済的にもちゃんとする。僕の知らない間にちゃんと買ってくれたりね。銀行も全部彼女がやっていたのです。一銭一円のくるいもなかったです。
と、主婦としても完璧だったそうで、
市川さんは、文字通り、由美子さんに、公私ともにサポートされていたようです。
妻が乳ガンで18年闘病~他界
しかし、1965年、由美子さんが、「乳ガン」に罹患していることが発覚。
その後は、闘病で脚本の執筆が思うようにできない時期もあったそうですが、それでも、市川さんに様々なアドバイスをして、「和田夏十」風の脚本を書かせていたそうで、クレジットの有無にかかわらず、由美子さんは市川作品になくてはならない存在だったそうです。
そして、そんな由美子さんも、1983年2月18日、18年の闘病の末、62歳で他界。
最愛のパートナーを失った市川さんは、
路頭に迷うみたいなもんでね(笑)。そこは図太いところも浅ましいところもあったりしてね、頑張らなくてはいかんと思った。
とにかく18年間彼女は闘病をしたのですからね。それを僕はつき合っていきましたから、彼女のことは全部分かるような気がしてはいたんですよ。だから亡くなった時は「しまった」と思った。
と、語ったのでした。
ちなみに、市川さんは、自身の監督作品が称賛されると、決まっていつも、
それは、夏十さんの功績です
と、答えられ、
1988年に「勲四等旭日小綬章」を受章された際にも、
妻が心の中で励ましてくれている。時代を透視しながら人間の本質を突きつめて映画を作り続けたい。
と、語っておられます。
若かりし日の市川さんと由美子さん。