1979年には、アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」を4ヶ月半という限られた期間で心血を注いで製作するも、興行的には失敗し、映画に携わることができなくなるという憂き目にまで遭ってしまった、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、1982年には、かねてより宮崎さんの才能に目をつけていた、徳間書店編集部の鈴木敏夫さんから新しい企画を依頼されます。

「宮崎駿の「ルパン三世カリオストロの城」は公開当時はサッパリだった!」からの続き

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引退を考えていた

アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」では心血を注ぐも、興行的には振るわず、「客を呼べない監督」というレッテルを貼られて監督生命を絶たれる窮地に追い込まれた宮崎さんは、

4ヶ月半という限られた期間での急ピッチの製作で疲労困ぱいしていたこともあり、やがて、

もう、アニメーションを辞める

と、引退を口にするようになったそうで、

もともと児童文学が好きだったことから、絵本作家や漫画家への転身を考え始めるようになったそうです。

漫画「風の谷のナウシカ」の連載がスタート

しかし、そんな中、当時、アニメ雑誌「アニメージュ」(1981年8月号)で「宮崎駿特集」を掲載するなど、宮崎さんの才能を高く評価していた「徳間書店」編集部の鈴木敏夫さんが、

宮崎さんから預かっていた「戦国魔城」「ロルフ」の2本のオリジナル企画(イメージボードが描かれているだけのもの)を映画化しようと、企画会議(映像会議)に持ち込むも、原作が存在しないという理由で却下されたことから、

アニメ化への土台作りと誌面の話題作りを兼ねて、宮崎さんに、「アニメージュ」での連載漫画の執筆を依頼されたそうで、

(「アニメージュ」編集長の尾形英夫さんが、オリジナル企画を実現するため、「原作付き」のハクをつけることを考案したそうです)

宮崎さんは、これを、

漫画として描くならアニメーションで絶対できないような作品を

という条件で了承。

宮崎さんは、「ロルフ」にSF的な”腐海”という設定が加え、タイトルも、「風の谷のナウシカ」と変更して、1982年、「アニメージュ」2月号から連載をスタートしたのでした。

(ちなみに、”腐海”とは滅亡した過去の文明に汚染され、不毛と化した大地に生まれた、新しい生態系の世界)


漫画版「風の谷のナウシカ」より。漫画版には、グロテスクなシーンや恋愛感情の描写が盛り込まれており、アニメ作品とはかなり趣旨が異なるようです。

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アニメ「風の谷のナウシカ」の映画化が決定

すると、SFファンタジー「風の谷のナウシカ」は、徐々に読者の支持を集めるようになったそうで、鈴木さんが、今度は、自社イベントのための特別短編アニメーション企画を宮崎さんに持ちかけると、宮崎さんはこれを了承。

さらには、「アニメージュ」編集長の尾形さんの尽力で、もともとアニメに造詣が深く、当時映画事業に意欲的だった「徳間書店」の徳間康快社長が、劇場アニメーション化することを決めたそうで、

宮崎さんの弟が勤務する広告代理店「博報堂」がプロデュースし、1984年、アニメーション映画「風の谷のナウシカ」の制作が開始したのでした。

「宮崎駿は「風の谷のナウシカ」で成功も引退宣言をしていた!」に続く

「風の谷のナウシカ」より。

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