高校卒業後は実家を離れて名古屋のホテルに就職するも、学歴の壁を感じて自分の将来に希望が持てなくなっていたという、平泉成(ひらいずみ せい)さんですが、そんなある時、同僚から、スター俳優の市川雷蔵さんを紹介してもらう機会に恵まれ、迷わず飛びついたといいます。

「平泉成の生い立ちは?高校卒業後はホテルでベルボーイをしていた!」からの続き

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ホテルの同僚にスター・市川雷蔵を紹介してもらう

ホテルへ入社後、研修が終わり、フロントのベルボーイに配属されるも、フロントのカウンターには、大学の英文科卒の人たちばかりが配属されているのを見て、将来に限界を感じ、俳優への憧れがふくらんだという平泉さんですが、

そんなある日、たまたま、寮で相部屋だった同僚が、

役者になりたいんなら、市川雷蔵を知ってるから紹介してやるぞ

と、言ってくれたそうで、

平泉さんは、当時、スター俳優だった市川雷蔵さんとホテルのベルボーイに接点があるのかと驚きつつも、渡りに船とばかりに、この話に飛びつき、紹介してもらうことにしたそうです。

(実は、その同僚は、同志社大学の相撲部出身で、市川雷蔵さんがチャンバラのため足腰を鍛えようと、相撲部に出入りしていたことから、知り合ったそうです)

「大映京都第4期ニューフェイス」のオーディションに合格

すると、市川さんからは、大映のフレッシュフェイス(=ニューフェイス)があるから、試験を受けるといいよと、アドバイスがあったそうで、

平泉さんは、1964年、19歳の時、早速、「大映京都第4期ニューフェイス」のオーディションを受けると、見事合格。

お父さんからもホテルからも引き止められたそうですが、その制止を振り切り、平泉さんは、芸能界に飛び込むべく、「大映」に入社したのだそうです。

オーディションには市川雷蔵の推薦で合格できた?

ちなみに、最終審査の時には、ずらっと審査員が並んでいる中、市川さんも正面にいたそうで、平泉さんは、オーディションの後、市川さんのところに、ありがとうございましたとお礼を言いにいったそうですが、市川さんは、「俺が入れてやった」という感じはまるでなかったそうです。

そして、その後は、祇園にご飯を食べに誘ってくれるなど、市川さんには特別に目をかけてもらったのだそうです。

(ちなみに、オーディション合格については、市川さんは真相を明かすことなく他界されているのですが、平泉さんは、まるで演技ができない自分が合格したのは、市川さんの推薦があったからだと信じているそうです)

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京都では3畳一間の部屋で金欠生活だった

さておき、「大映」に入社後、京都に移り住んだ平泉さんは、水道はなくトイレは共同、コンセントが1個あるだけの3畳一間2000~3000円の部屋を借りたそうですが、

撮影所が歩いて5分ほどのところにあったため、お風呂や晩御飯は、撮影所で済ませることができ、部屋は帰って寝るだけので生活だったため、それほど不自由を感じず、(京都にいる間)4年ほど住んだそうです。

(エキストラのおばちゃんたちが、「平泉君かわいいから食券あげる」と行って、食券をたくさんくれたそうで、撮影所の食堂で晩御飯を食べることができたのだそうです)

とはいえ、生活は苦しく、常に金欠状態だったそうで、電熱器を借りて来てうどんを茹でたり、傷んで一番安くなったリンゴを買って食べ、なけなしの百円玉数枚を握りしめてパチコン屋に通っては、玉は打たずに、玉の出る台を何日もかけて偵察する毎日だったそうです。

「平泉成が若い頃は市川雷蔵に可愛がられていた!」に続く


ニューフェイス時代の平泉さん。

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