ホテルの同僚に、当時のスター俳優・市川雷蔵さんを紹介してもらうと、市川さんには、「大映ニューフェイス」のオーディションを受けるよう勧められ、見事合格した、平泉成(ひらいずみ せい)さんは、その後も、市川さんにはとても可愛がられたといいます。
「平泉成が若い頃は市川雷蔵の推薦で大映に入社していた!」からの続き
市川雷蔵に可愛がられていた
1964年、19歳の時、「大映京都第4期ニューフェイス」のオーディションに合格し、京都に移り住んだ平泉さんは、3畳一間の部屋で暮らしながら、芝居・乗馬・三味線・立ち回りなどを習い、役者としての基本レッスンを受けると、
1965年には、本名の「平泉征七郎」名義で、「青いくちづけ」「新鞍馬天狗」「悪名無敵」などの映画に端役(エキストラ)で出演したそうですが、
市川雷蔵さんの主演映画「若親分喧嘩状」にも出演したそうで、市川さんには、その後も、何かとかわいがってもらったそうです。
(ただ、市川さんには、何度か、同志社大学の相撲部に連れて行かれたことがあったそうですが、相撲で使うまわしは、洗わないで誰かが使ったものをそのまま下着を脱いでつけなければならなかったため、それがとても嫌だったそうです(笑))
同志社大学の相撲部より。平泉さん(左端)と市川雷蔵さん(左から4人目)。
市川雷蔵からはしばしば新劇を見るための切符とお小遣いをもらっていた
そんなある日のこと、市川さんに、
平泉くん今日空いてるか?オレの代わりに芝居見に行ってくれるか?
と、頼まれたそうで、
(当時、京都には、東京から、「俳優座」「文学座」「民藝」などの劇団が、所属俳優を売り込むため、お芝居をしに来ていたことから、京都撮影所のスタッフや監督が招かれていたのだそうです)
平泉さんが、
いいですよ、やることないし
と、答えると、
市川さんは、後で切符を届けることを約束し、しばらくして、お付きのおじさんが切符を茶封筒に入れて持ってきてくれたそうですが、
平泉さんが茶封筒を開けると、そこには、切符以外に、お金も一緒に入っていたそうで、
(お芝居の後に、ご飯を食べたり、一杯飲みに行けるくらいの金額だったそうです)
平泉さんは、
雷蔵さんはあのとき、まだ34、35歳くらいだったと思います。自分はその年になっても、とてもそんな心遣いはできなかった。自分のことで精いっぱいでね。
と、市川さんの心遣いに感動したと、語っています。
(同様のことが幾度かあったそうで、市川さんがお芝居のチケットをくれたのは、当時、まだ演技がそれほど上手ではなかった自分に演技の勉強させるためだったと、平泉さんは考えているのですが、実際、三隅研次監督や助監督たちも同じ舞台を観ていたことから、自然と会話しながらお芝居や演技を教えてもらうことができ、とても勉強になったそうです)
市川雷蔵から直接演技指導を受けるも・・・
また、平泉さんは、市川さん本人からも、
芝居をするな。もっと普通に立っていなさい。
などの演技指導を受けていたそうですが、
(平泉さんは、若かったせいもあり、目をひんむいて、力ばかりが入ったお芝居をしていたそうです)
やがて、大映の看板スターだった市川さんと同じことをやろうとしても、到底、無理だと気が付いたそうで、
共演者で自分と近い人のお芝居を参考にしようと、昼間に、目標になる人のお芝居をじっと見てセリフを覚え、撮影が終わった夜、「あの人はこうやって動いてたな」と思い出しながら、同じようにマネ(練習)をするようになったそうです。
(夜になると、常夜灯がセットの中につき、翌日の撮影までついたままだったそうです)
「平泉成は下積時代に三隅研次監督に演技指導されていた!」に続く
市川雷蔵さん(左)と平泉さん(右)。