1964年、「大映京都第4期ニューフェイス」に合格し、スターになれるかもしれないと、意気揚々と、「大映」に入社した、平泉成(ひらいずみ せい)さんですが、市川雷蔵さん、勝新太郎さんという大スター2人の陰で、一向に良い役が回ってこず、脇役が続く中、ついには、スター(主役)を諦め、脇役に徹する決意をしたといいます。
「平泉成が今でも忘れられない下積時代の監督の言葉とは?」からの続き
「大映」ではスターになれず
1964年に「大映京都第4期ニューフェイス」に合格し、「大映」に入社すると、市川雷蔵さん、勝新太郎さんという大スター2人と、後にクエンティン・タランティーノ監督やサム・ライミ監督にも大きな影響を与えたと言われる三隅研次監督に囲まれて下積みした平泉さんは、
1966年には、「平泉征」の芸名で、「酔いどれ博士」のトラ松役で実質的な映画デビューを果たすのですが、
その後は、
「兵隊やくざ 大脱走」(1966)
「大殺陣 雄呂血」(1966)
「大魔神怒る」(1966)
「眠狂四郎無頼控」(1967)
「若親分兇状旅」(1967)
「大魔神怒る」より。
「闇を裂く一発」(1968)
「妖怪百物語」(1968)
「女賭博師絶縁状」(1968)
「蛇娘と白髪魔」(1968)
「蛇娘と白髪魔」より。
と、立て続けに映画に出演するも、脇役ばかりだったそうです。
また、1968年、24歳の時には、現代劇に異動を命じられ、上京して数々の映画に出演するのですが、やはり、良い役は巡って来ず、相変わらず脇役ばかりだったそうです。
「大映」が倒産しフリーになるも・・・
そんな中、1971年には「大映」が倒産してしまい、フリーになった平泉さんは、
(「大映」は、1967年には勝新太郎さんが独立、1969年には市川雷蔵さんが他界と、看板俳優の二人をなくし、青色吐息だったそうです)
刑事モノのテレビドラマなどで、悪役を中心に演じるのですが、
やがて、平泉さんいわく、(当初は、「自分にも才能があるかもしれない」と思っていたが)自分には何の才能もないことに気づき、
自分は大根だ
と、考えるに至ったそうで、
才能がなくても経験値を増やしていけば俳優をやっていけると、180度転換し、「脇役に徹して生きよう」と、覚悟を決めたのだそうです。
現代劇で悪役を演じる平泉さん。
脇役に徹すると決めるも・・・
そんな、平泉さんは、
結局ね、スターになりたくて大映に入ったわけじゃないですか。例えばメロンをスターだとしたら俺、一生懸命メロンになろうと思っても、ちょっと待てよ。
鏡に映してみると俺、メロンじゃないよな。どれほど努力してもメロンにはなれないな。メロンの役はこないんですよ。待っても待ってもこなくてどうすりゃいいんだと思ったときに、鏡をよく見てたら大根なら大丈夫だと思って。
みんながメロンを目指している間に大根を目指そうと。日本一の大根になれば安いメロンには勝てるかも分からんと。ちょっと待てよ。大根はすりおろしてさんまの横に置いてもいいし、おでんにもいいし、いろんなものに大根は使われると。
そうすると大根の生きる道というのが1つあるなと思って。だから、メロンになれればメロンになったんですけど、無理だったので大根のほうを目指したんですよ。
主役が松坂牛であれば、オレはそれにはなれない。ステーキの脇にあるダイコン(大根)やにんじん(人参)・・・根菜になってやろう。競争の少ないそっちを目指そう。
などと、様々なインタビューで、語っているのですが・・・
スターを諦めることには葛藤も
それでも、平泉さんは、
(脇役に転身したのは)勝負しないで長続きするように。でも寂しいよね、勝負しないのも。だけど、その道を選んで勝負してバーンといけば、バーンと落ちることもあるし。
だったら細く長く行く道を選ぼうかと。
情けない考え方だよね。でも、自分ではそう思ったけど。
とも、語っており、
やはり、「大映京都第4期ニューフェイス」に合格して「大映」に入社し、市川雷蔵さんや勝新太郎さんという大スターの陰で、スターを夢見ていた平泉さんにとって、”脇役に徹する”ということは、様々な葛藤があったようです。
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