終戦後、満洲では、ソ連兵が町に押し寄せ、暴虐の限りを尽くす中、家に押し入られるも、ソ連兵の喜ぶであろう、ライターを差し出し、見事、ソ連兵を撃退して事なきを得たという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんですが、ホッとしたのも束の間、周囲では次々と恐ろしいことが起こったといいます。
「森繁久彌は昔満洲でソ連兵に家に押し入られ銃撃されていた!」からの続き
日本人が次々とシベリアに送られていった
1945年の秋が深まってきた頃には、ゲペウ(GPU・秘密警察)たちによって、スパイ狩り、軍人狩り、重要人物狩り、反ソ分子狩りが活発に行われ始め、捕まると、何の弁解も容赦もなく、どんどんシベリアへと送られていったそうで、
南新京駅には、日本人を満載に乗せた有蓋貨車が、ひっきりなしに北へと出発し、森繁さんは、荷物の積み込み作業のために駆り出され、次々と出発する汽車を見送りながら、荷物をその列車の後尾の貨車に積み込んだそうです。
近所の人がソ連兵に頭を銃で撃たれ殺される
そんな、ある夜のこと、向かいの家から叫び声が聞こえてくると、その家のおばあちゃんが走り出して来て、
みなさん、ご近所のみなさん、家へ兵隊が入っています、お願いします、お願いします
と、叫んだそうですが、
森繁さんたちはどうすることもできず、窓から覗(のぞ)くことしかできなかったそうです。
(森繁さんは、憲兵に電話をかけたそうですが、憲兵は来てくれなかったそうです)
すると、やがて、ピストルの鈍い音がしたそうで、ソ連兵が立ち去ったあと、森繁さんら近所の者たちが集まると、その家のご主人が頭を撃たれて血まみれになって倒れていたのだそうです。
(ソ連兵に奥さんが強姦されそうになったため、ご主人が果敢に立ち向かうも、殺されてしまったそうです)
骨と皮ばかりの痛々しい遺体が山積みにされていた
そこで、森繁さんは、ズタ袋から一巻のお経を出して、亡くなったご主人の枕元で読経をし、遺体を南新京の駅の近くの原っぱに運んだそうですが、そこには、すでに焼き場ができており、こんなに焼き切れるのかと思うほどの遺体が雨の中に転がっていたそうで、
これらの遺体は、骨と皮ばかりの痛々しい姿で山積みにされており、主に満州東部から1ヶ月がかりで逃げてきた難民たちの最期の姿だったそうですが、子供が多かったそうで、森繁さんは、その干からびたホコリまみれの頭をなでながら、あふれる涙を止めることができなかったそうです。
すると、そんな森繁さんの様子を見ていた係員から、
まだ心臓のあったかいのも居るんだがね
と、言われたそうで、
森繁さんは、悲しく、煮えくり返る気持ちで、石をつかんで、天に向かって投げつけたのだそうです。
水を求める日本人の声を聞き水を探して歩き回る
その後、森繁さんが、遺体を焼くのを待っていると、
突然、
水をくれえ、日本人だ、水くれ
という、かすかな声が、引き込み線の闇の中から聞こえてきたそうで、
声の方を探しながら歩いて行くと、貨車の小さい窓から半分ほど顔が見え、
水をたのみます。大勢いるんです。 かくれて来て下さい。屋根の上に巡視がいますから
と、言われたそうで、
森繁さんは、再び、来た道を戻り、汽車から降りた満鉄の機関士たちから空になった一升瓶をもらうと、駅の構内を水を求めて歩き回ったそうです。
(罐焚き(かまたき)からは、「やめた方がええよ、射たれるから」と忠告されたそうですが、あの声を聞いてしまった以上、思いとどまるのは卑怯に感じたそうです)
いつ動き出す分からない汽車の下を這って日本人に水を渡す
そして、ついに、水を見つけると、一瞬、ためらいながらも、いつ動くか分からない列車の下を這って行き、なんとか水を手渡したそうですが、ちょうどその時、先の方で、機関車がボーッと汽笛を鳴らしてゴトンと動きはじめたそうで、森繁さんは間一髪で助かったのだそうです。
ちなみに、森繁さんは、著書「森繁自伝」で、この時のことを、
チロチロと屍(しかばね)を 焼く火が燃える向うの闇を、物言わぬ車が、何輛も何輛もつづいて北へ北へと消えて行った。
と、綴っています。
「森繁久彌は敗戦後満洲でシベリアに連行されそうになっていた!」に続く
「森繁自伝」