作家になるべく、母親の反対を押し切り、早稲田大学第2文学部に入学すると、昼間「交通公社」で働きながら、小説を書き続けるも、自分の才能のなさに断念し、次は、ジャーナリストを目指して、再度、早稲田大学第1文学部を受験すると、見事合格したという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、「交通公社」を辞め、家庭教師(塾)のアルバイトで稼いだそうですが、肝心のジャーナリストになるための、マスコミ関係の会社の就職試験には、ことごとく不合格になってしまったといいます。
「田原総一朗はジャーナリストを目指し早大第1文学部に入り直していた!」からの続き
下宿代と実家への仕送りをするためアルバイトに明け暮れていた
1956年4月、再度受験して、早稲田大学第2文学部から早稲田大学第1文学部国文科に入学し直した田原さんは、育英会から奨学金をもらって学費に充てていたそうですが、
これまで同様に、伯母さんの家への下宿代4000円と実家への仕送り2000円(額が倍になったそうです)を稼がなければならなかったため、マーケティングリサーチ、写真のDPE、業界新聞の配達など、いろいろなアルバイトをしていたそうです。
家庭教師の延長で塾まで開いていた
中でも、一番良く稼げたのが、家庭教師のアルバイトだったそうで、親戚や近所の子供たち計4人に週1回教えていたそうですが、そのうち、家庭教師の仕事が忙しくなって新聞配達をやめることになり、さらには、大学2年生の途中からは塾を始めることになったそうで、
(家庭教師よりも、まとめて教えた方がいいと思ったそうです)
伯母さんが庭に増築した部屋を借りて、1クラス6人ほどのクラスを全4クラス、小学4~6年生の女の子ばかり20人ほどに対し、2クラスは田原さんが直接教え、残りの2クラスは東京教育大学の学生を雇って担当してもらったのだそうです。
(月収は2万円ほどあり、東京教育大学の学生へのギャラや部屋の賃貸料を払っても、かなりの金額が手元に残ったそうで、お陰で大学時代の後半はずっと経済的に潤っていたそうです。また、塾の講師をして、教えることの楽しさにも目覚めたそうです)
マスコミ関係の就職試験を受けるもことごとく不合格だった
そんな田原さんは、大学4年生になると、ジャーナリストを目指し、NHK、朝日新聞、日本教育テレビ(NET)、フジテレビ、東京放送、大阪毎日放送、北海道放送、ラジオ関東(現・ラジオ 日本)、東京新聞、角川書店、日本食堂など、とにかく、手当たり次第に、マスコミ関係の会社の就職試験を受けたそうですが・・・
(その中にはいくつかコネもあったそうですが)ことごとく不合格だったそうで、しかも、同じクラスの同級生たちは、田原さんが落ちた企業に次々と合格していたそうで、自分の能力のなさに半ば呆れたそうです。
ちなみに、アルバイトが本業のように忙しく、大学の講義にはあまり出席できなかったそうですが、友人に出席の代返(だいへん)をしてもらい、なんとか卒業はできたそうです。
(※代返とは、出欠時の際の返事を他の人にしてもらうこと)
「田原総一朗は「岩波映画製作所」の面接で昼食を要求していた!」に続く