「未知への挑戦」シリーズを次々と手掛けると、様々な賞を受賞するなど、成功を収めるも、その妬みからか、同僚たちに陥れられ、「未知への挑戦」を降板させられたという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、その後、「報道部」に移籍し、過激なドキュメンタリー作品「ドキュメンタリー青春」を手掛けたといいます。
「田原総一朗は若い頃「未知への挑戦」を妬みから降板させられていた?」からの続き
報道部に移籍
「未知への挑戦」を降ろされた田原さんは、その約2ヶ月後、「報道部」に拾ってもらったそうですが、「報道部」に移籍してしばらく経った1966年3月、事実上、「東京12チャンネル」が倒産したそうで、
希望退職者が募集され、多くの社員が退職に応じたそうですが、なぜか、田原さんはクビにはならず、そのまま、「東京12チャンネル」に残って、「報道部」でドキュメンタリー作品「ドキュメンタリー青春」を手掛けることになったそうです。
特別少年院に入所している少年のドキュメンタリーを手掛けることに
ちなみに、田原さんが手掛けた「ドキュメンタリー青春」は、「出発(その一)~少年院を出たMの場合~」(1968年11月17日放送)「出発(その二)」(1968年11月24日放送)という、過激なものだったそうで、
もともと、録音担当の安田哲男さんが、
田原ちゃん、究極のドキュメンタリーを作らないか
と、持ちかけて来たことから、
田原さんが、
究極のドキュメンタリーって何だ
と、聞き返すと、
安田さんは、
神奈川県久里浜に特別少年院というのがある。特別少年院は 少年院をあちこち回ってきた少年が入る監獄みたいなものだ。ここに入所している少年を、少年院の中から撮り始め、出てきて更生するプロセスを撮ろうじゃないか
と、言ったそうで、
田原さんが、
そんなの、できっこないよ。少年院出身だと言わないから更生できるんであって、番組で少年院出身だと紹介したら 更生できるわけがない
と、反論すると、
安田さんから、
度胸なし。 意気地なし。オレはもう、手を切る
と、さんざん、罵倒されたそうで、
田原さんは、仕方なく、
じゃあ、やるか
と、重い腰を上げたのだそうです。
久里浜の特別少年院の院長に取材協力を依頼
そして、田原さんは、安田さんが親交があった羽仁進監督映画「不良少年」(1961)の協力者で、少年たちの厚生を助ける活動をしていた女性を介して、久里浜にある特別少年院の院長を紹介してもらうと、
入所している少年が更生していくプロセスを撮りたい。出所する時点で20歳になっていて、親が引き取らない少年を紹介してほしい
と、院長に何度も会って取材に協力してくれるように依頼し、最終的に、院長の許可を得ることができたのだそうです。
(安田さんは、フリーの録音担当として羽仁進監督の映画「不良少年」に携わっていたそうですが、実質、羽仁監督のパートナーのような役割をしていたそうです)
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