1975年には、43本塁打を放ち、巨人の王貞治さんが13年君臨していた本塁打王の座を奪取している、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、実は、5月29日、中日8回戦で鈴木孝政投手の快速球が左手首に当たり、骨折こそしなかったものの、痛みと腫れが残って、バットが振れず、捕球もままならない状態だったそうで、そんな中、右腕1本で2発ものホームランを放っていたといいます。

「田淵幸一は首位巨人と1ゲーム差の直接対決で逆転満塁本塁打を放っていた!」からの続き

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左手首の腫れを押して試合に出ていた

1975年5月29日、田淵さんは、中日の鈴木孝政投手の快速球が左手首に当たり、骨折こそしなかったものの、痛みと腫れが残り、バットを持っているだけで左手首が悲鳴を上げていたそうですが、

それでも、5月31日、甲子園での大洋戦の前に、マシーン相手に打ち込みをしていると、

山本哲也コーチが、

ブチ、子供たちがお前のバッティング見たがっとる。ゲームに出られんのなら、打撃練習くらい外で打てや

と、声をかけてきたそうで、

田淵さんは、マシーンを止めず、          

山本さん。勘弁して下さい。バットをまともに振れない痛々しい姿をファンに見せるのはかえって失礼ですよ。それより代打で出たら、必ず打ちますから

と、汗を拭いながら答えたそうです。

右腕1本で17号同点ソロホームランを放っていた

そして、試合が始まると、7回1死、4対3で阪神が1点リードしている場面で、田淵さんは代打で打席に入るのですが、間柴富裕(後に茂有)投手の内角高めのボールを捉えると、滞空時間の長い独特の軌道を描いた打球はレフトスタンドに飛び込む17号同点ソロホームランとなったそうで、

とにかくフルスイングで引っ張ることができない。当てることが精いっぱいだった。右腕1本で打ったホームランだね。よく飛んでくれた

と、なんと、右腕1本でホームランを放ったのでした。

(間柴投手が投じた球は、内角高めの見逃せばボールの球だったそうですが、田淵さんがここまで16本塁打していたことから、緊張のせいか、腕が十分に振れず、球威が足りなかったそうで、田淵さんはそれを見逃さなかったのでした)

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左手首を痛めながらも逆転サヨナラ3ランホームランを放っていた

しかも、田淵さんは、翌日の6月1日にも、大洋が2点リードで迎えた9回、1死一、三塁のチャンスで(途中出場の)打席が回ってくると、カウント2ストライク1ボールと追い込まれた中、肩口から入った甘いカーブを捉え、左中間に逆転サヨナラ3ランホームランを放っているのですが、

(外野手は、左中間に飛んでいった打球を追わずに、ただただ、見送るしかなかったそうです)

田淵さんは、打球の行方をちらっと見ただけでホームランを確信したそうで、一塁線上で両腕を高くあげ、両足でジャンプしたそうですが、この時は、左手首の痛みも忘れるほどうれしかったそうで、

滅多にないホームラン。最初にストライクを取ってきたので、勝負してくるなと思った。打ったのはカーブ。ストレートだったらあんなに飛ばなかっただろう。子供たちにも喜んでもらえた?そうだね。土曜、日曜と打ててよかった

と、語っています。

(大洋の捕手・伊藤勲さんは、左手首を痛め、十分にスイングできない田淵さんの状態なら、竹内広明投手の威力のあるまっすぐで打ち取れると思い、勝負球にストレートを要求したそうですが、竹内投手は首を振り、得意のカーブを投げたそうで、これを田淵さんが捉えたのでした)

「田淵幸一は西武へのトレードを深夜に呼び出されて通告されていた!」に続く

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