終戦後、中国から帰国して、初めての体外試合で、いきなりノーヒット・ノーランを達成した、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後、「中部日本」(後の中日ドラゴンズ)からスカウトされるも断り、明治大学に進学したといいます。

「杉下茂は戦争から帰国後に社会人でノーヒットノーランを達成していた!」からの続き

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友人の父親のつてで明治大学に推薦入学

中国から帰国後は、「いすゞ自動車硬式野球部」での初の対外試合であるコロムビア戦で、いきなり、ノーヒットノーランを達成したという杉下さんは、これで自信を深めたそうで、

太平洋戦争で中断され、1946年春に再開された東京六大学野球リーグの試合を観に行くと、

これなら(東京)六大学でもやれる

と、感じたそうで、

お母さんに、

同級生より遅れてしまったけど、大学へ行きたい

と、言うと、

その後の詳しい経緯は不明ですが、友人のお父さんが、野球推薦という形で明治大学(旧制の専門部、3年制)入学の手はずを整えてくれたのだそうです。

中日のエース・西沢道夫投手と帝京商業時代のチームメイトからスカウトされるも・・・

そんな中、同年2月、戦前、「中部日本」(後の中日)のエースだった西沢道夫投手と、捕手で帝京商業学校時代のチームメートの藤原鉄之助さんから、「中部日本」への入団を誘われたそうですが、

(杉下さんは帝京商業時代には右肘を痛め、一塁手となっていたことから、野手としてのスカウトだったそうです)

杉下さんは、お母さんから、「職業野球(のちのプロ野球)なんて、もってのほかだよ」と言われていたほか、杉下さん自身、野球を自分の仕事にするとは考えたこともなかったことから、

藤原さんが誘いに来るたびに、

おれは明治に入るから、もう来ないでくれ

と、断っていたのだそうです。

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中日の竹内愛一監督に直接断っていた

すると、藤原さんからは、

(スカウトの)役目を果たせないから困る

と、言われたそうで、

杉下さんは、後楽園球場で中部日本の試合がある時、直接、竹内愛一(たけうち よしかず)監督を訪ね、

もう、テツ(藤原さん)を寄こさないでください

と、頼んだそうですが、

後に、杉下さんは、

そのとき入団していたら「投手・杉下」はいなかった。何年か野手をやって、やめただろうね。

と、語っています。

「杉下茂は明治大学で1日1000球もの投球練習をさせられていた!」に続く

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