秋田県立秋田工業高等学校時代は、封建的な野球部が嫌で、学校自体さぼり、毎日映画館通いをしていたにもかかわらず、チーム一番の実力者だったため、野球部の試合がある時だけ、試合に出場させられていたという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、高校3年生の時、野球部部長の安藤晃さんに勧められ、東洋大学野球部のセレクションに参加すると、見事合格して東洋大学に進学するのですが・・・

「落合博満は高校時代毎日授業をサボって映画館通いしていた!」からの続き

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東洋大学野球部のセレクションに合格するも・・・

落合さんは、秋田県立秋田工業高等学校を卒業後は就職すると決めていたそうですが、1971年10月(高校3年生)、野球部部長の安藤晃さんに勧められて東洋大学野球部のセレクションに参加すると、そこで特大の本塁打を連発し、合格したそうで、

一足先に野球部に入部すると、いきなり背番号を与えられ、ポジションも内野手に決まり、高校卒業前の2月には合宿入りしたそうです。

松山キャンプの練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫で毎日の通院を余儀なくされていた

そんな落合さんは、1年生約20名の中から選抜されたメンバー(4人)の1人に選ばれ、松山キャンプにも参加したそうですが・・・

その練習中、左大腿部の肉離れと足首の捻挫というケガを負ってしまい、毎日の通院を余儀なくされてしまったのだそうです。

封建的な雰囲気が嫌で東洋大学野球部も入学前に退部し大学自体も半年で中退

さらに、東洋大学野球部も秋田県立秋田工業高等学校野球部の時と同様、封建的なところだったことから、落合さんは4月の入学式を前に合宿所を飛び出し、野球部を退部してしまったのだそうです。

(大学自体も半年で中退したそうです)

ちなみに、監督は「復帰は2年生になってからでもいいから」と言ってくれたそうですが、落合さんは、「もうやめさせてください」と言って断ったのだそうです。

(東洋大学野球部では、殴られることはなかったものの、先輩を立てるという風習や、学年が上というだけで先輩が後輩に威張り散らしていたそうで、落合さんは「自分から自発的に野球をする意識が持てず、雑用を押し付けられて野球を嫌々やらされるだけ」と嫌気が差したのだそうです)

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東洋大学中退後は姉のアパートを飛び出してホームレスのような生活をしていた

そんな落合さんは、東洋大学中退後は、秋田県立秋田工業高等学校時代から住まわしてもらっていたお姉さんのアパートを飛び出したそうですが、

行くあてもなく、毎日、あちらをウロウロ、こちらをウロウロとし、犬を連れた西郷隆盛の銅像を見ながら上野公園で野宿したこともあったほか、日比谷公園で一泊したこともあったそうで、

落合さんは、その頃のことを、著書「なんと言われようとオレ流さ」で、

暑い夏の日だったが、後楽園でちょうど都市対抗をやっていた。外野席で朝から一日中見ていて、全ゲームが終わったとき、ヒョッとポケットの中を調べたら、五円しかない。後楽園からテクテク歩いたけど、行くあてもなければ、やることもない

と、綴っています。

「落合博満は東洋大学中退後はプロボウラーを目指していた!」に続く


なんと言われようとオレ流さ

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