当初は、父親の要望通り、エンジニアになるべく大学に進学する予定も、3年生の夏の選抜大会決勝でありえない負け方をしてしまったことから、「野球でやり残した」と感じるようになり、プロ野球選手になることを考え始めたという、王貞治(おう さだはる)さんは、一時は、阪神タイガースの名スカウト・佐川直行さんの熱心な誘いで、阪神タイガース入りに気持ちが傾いていったそうですが、最終的には、少年時代からファンだった巨人に入団することになったといいます。

「王貞治は阪神タイガースに入団するはずだった?」からの続き

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巨人が再び王貞治獲得に名乗りを上げる

王さんは、1958年、高校3年の夏の甲子園大会が終わると、同年8月22日、日刊スポーツに、「王投手(早実) 阪神入り濃厚」という見出しで報道されたそうですが、

(これは、後に、新聞記者からプロ野球界に転じ、ヤクルトの球団代表などを務めた田口周さんのスクープだったそうです)

報知新聞の記者・田中茂光さんが、この記事にいち早く反応し、報道の事実を確かめるため、王さんの家にやって来て、この情報が正しいと知り、すぐに、巨人に「大変です」と連絡すると、

巨人も、

(王さんが)大学へ行くと聞いていたので、獲得に乗り出さなかったが、プロに行くなら、ぜひ、うちに来てほしい

と、王さん獲得に名乗りを上げたそうです。

阪神と巨人のスカウトは親族を巻き込む場外戦を繰り広げていた

すると、その後、王さんと田中さんの間で、

田中さん:進学と聞いてあきらめていたが、プロに入るなら巨人じゃないの。(阪神と)契約書は交わしたのかい?

王さん:まだです

田中さん:よし、それなら大丈夫だ

とのやり取りがあり、

そこから先は大人同士の話し合いとなって、阪神は、王さんのお父さんとお母さんを取り込み、巨人は、王さんのお母さんの弟・川口二郎さん(王家の相談相手だったそうです)や王さんの兄・鉄城さんを取り込むという、場外戦が繰り広げられたそうです。

(ちなみに、医師だったお兄さんが勤めていた神奈川県大和町(現・大和市)の病院で、阪神のスカウトの佐川さんと巨人の球団代表がばったり鉢合わせしたこともあったそうです)

巨人入団が決定

さらには、他のプロ野球球団も、巨人に続いて、次々と王さん獲得に名乗りを上げ、

(中日が、前年に巨人入りした長嶋茂雄さんを上回る二千万円近い契約金を示して参戦したという話も)

王さんの知らないところで、状況は二転三転し、にっちもさっちもいかなくなったことから、家族会議を開いて決めることになったそうで、

8月31日、(実家には記者が詰めかけていたため)王さんのお父さんと同様、中華料理店を営んでいた、横浜の佐々木さんという親類の家に、王さん、王さんの両親、王さんのお兄さん、王さんの叔父の川口さんの5人で集まって話し合い、

最終的には、お兄さんから、

結局はおまえがどうしたいかだ。おまえはどっちがいいんだ?

と、聞かれ、

王さんが、

巨人です

と、答えたことで、巨人への入団が決定したのだそうです。

(その後、お兄さんは、すぐに阪神など他の球団に断りの電話を入れ、頭を下げてくれたそうです)

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巨人に入団した理由は少年の頃から川上哲治のファンだったから

ちなみに、王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、

皇居を望む東京會舘で行われた入団会見に「貞治の晴れ姿を見たい」と王家の一族郎党が大挙して現れ、球団側が慌てて椅子を用意するといった騒ぎのなか、背番号「1」が発表された。

ただならぬ期待を感じ「一日も早く第一線に出られるように頑張りたい」と言った。「私は子どものころからの巨人ファン、それも川上(哲治)さんのファンでした。その川上さんと一緒にあこがれの巨人のユニホームを着てプレーできるのかと思うとまるで夢のようです」

それは18歳の正直な気持ちだったが、(阪神のスカウトの)佐川さんには済まないことをしたと、今でも思っている。

と、綴っています。

(王さんは、背番号「1」のほか、契約金1800万円、月給12万円(年俸144万円)と、当時、高卒の新人としては破格の条件で巨人に入団しています)


1958年10月、巨人入団の会見で初めて背番号「1」のユニホームを着る王さん。

「王貞治は巨人入団後キャンプ2週目で投手失格を言い渡されていた!」に続く

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