投打両方の才能を見込まれ、契約金1800万円、月給12万円(年俸144万円)と、当時、高卒の新人としては破格の条件で巨人に入団した、王貞治(おう さだはる)さんですが、投手としては、キャンプ2週目にして、「明日から投げなくていい」と言い渡されたといいます。

「王貞治が巨人に入団した理由は少年時代から川上哲治のファンだったから!」からの続き

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巨人のキャンプ地・宮崎に意気揚々と寝台急行「高千穂」で向かっていた

王さんは、高校の卒業試験があったため、先輩たちから2日遅れで、1959年2月1日、寝台急行「高千穂」に乗り、巨人のキャンプ地である宮崎に向かったそうですが、

王さんは、すでに、ちょっとした有名人になっており、「高千穂」の寝台で隣り合わせた人たちには「がんばれよ」と声をかけられたそうですが、

この時、王さんはまだ18歳と若かったことから、あっけらかんとし、怖いもの知らずで、重圧も不安もなく、

むしろ、

これから、いよいよ、戦場に乗り込むんだ

という、高揚感しかなかったそうです。

入団後初のキャンプでは「スター見習い」扱いで長嶋茂雄との二人部屋だった

ちなみに、王さんは、キャンプでは、球団から「スター見習い」という配慮をされ、すでに、スターだった長嶋茂雄さんとの二人部屋となったそうですが、

王さんは、片付けが下手なうえ、寝相が悪く、大いびきをかいて寝ていたそうで、長嶋さんが「勘弁してよ」と悲鳴を上げ、10日もしないうちに、5~6人の大部屋に移されてしまったそうです。

ただ、当の王さんは、それを聞いても何とも思わず、むしろ、5~6人の大部屋で、みんなでワイワイやっているほうが気が楽だったそうです。


長嶋茂雄さんと王さん。

(ちなみに、この時、王さんは、長嶋さんとは2度目の対面で、初対面は、(報知新聞の計らいで)巨人入団が決まってから、夜行で広島へ遠征に出る巨人軍を東京駅に訪ねた時で、まん丸眼鏡をかけたコーチの川上哲治さんが「大変だけど、やりがいのあるところだから頑張れよ」と声をかけてくれた、その横で、長嶋さんはニコニコしていたそうです)

キャンプ2週目に投手失格の烙印を押されていた

さておき、王さんは、投打共に才能を見込まれて巨人に入団しており、入団会見の際には、

投手をやるか、打者になるか、それはキャンプで監督さんの命令通りに。

と、話していたのですが・・・

キャンプで、ブルペンの投球練習に参加すると、先輩との球と比べ、勢いの差は歴然としていたそうで、キャンプの2週目、宮崎から明石へ移動する時、水原茂監督、川上コーチ、中尾碩志投手コーチに呼び出され、

明日からもう投げなくていい

と、言われてしまったそうです。

(巨人は前年まで兵庫県明石がキャンプ地だったため、宮崎への移行期間として、最初の2週間は宮崎、後半の2週間は明石でキャンプというスケジュールになっていたそうです)

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投手を諦めることには未練があるもホッとしている部分もあった

ちなみに、王さんは、早々にキャンプで「投手失格」を言い渡されたことについて、

野球はなんといっても投手だ。一度でも経験した者は「生涯投手」と思うもので未練はあった。

と、語っているのですが、

現実的には、ピッチャーとしては、高校2年生の時が頂点で、後はだんだん下っていることを自覚していたそうで、

一方ではほっとした自分もいた

とも、語っています。

「王貞治は巨人入団直後から長嶋茂雄にバッティングを高く評価されていた!」に続く

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