巨人入団1年目の、1959年6月25日、後楽園球場で行われたプロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)では、阪神のエース・小山正明さんから同点2ランホームランを放った、王貞治(おう さだはる)さんですが、その後、再び打てなくなり、平凡な成績に終わると、2年目にはまずまずの成績を残すも、3年目には再び成績が下がり、「背番号1」の期待に応えられずにいたといいます。

「王貞治も天覧試合で同点2ランホームランを打っていた!」からの続き

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プロ入り1年目の成績は打率1割6分1厘、7本塁打と振るわなかった

プロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)の阪神戦では、同点2ランホームランを打つ活躍を見せた王さんですが、以降、再び、当たりがぴたりと止まり、目立った活躍ができないまま、1年目は、打率1割6分1厘、7本塁打という成績で終わってしまいます。

(特に、三振の数が72と多く、打撃に致命的な欠陥があったそうで、そのせいで、王さんは、「王、王、三振王」とのヤジも浴びたそうです)

「ボールを大事にした」との理由で1万円昇給し、以降、現役を引退するまで一度も契約更新でもめることはしなかった

それでも、シーズン後、初めての契約更新の際には、成績では昇給の要素はなかったものの、「ボールを大事にした」との理由で、月給12万円から1万円上げてもらったそうで、

王さんは、これに感銘を受け、以降、現役を引退するまで一度も契約更新でもめることはしなかったそうです。

(当時は専門の用具係がおらず、新人がボールなどを管理していたそうですが、王さんは、自腹で専用の糸を購入し、丁寧にボールの破れを修繕していたそうで、このことが球団代表により評価されたのだそうです)

プロ入り2年目の成績は打率2割7分、本塁打17本、71打点とまずまずも・・・

そんな王さんは、翌年1960年(2年目)には、130試合に出場し、打率2割7分、本塁打17本、71打点と、まずまずの成績を残したのですが・・・

(これは、1年目のシーズン後、国鉄スワローズと共に関東を巡るオープン戦において、10数試合で3割をマークしたことが自信になったほか、東京六大学野球の早稲田大学から、大型一塁手として木次文夫さんが巨人に入団してくることになり、危機感を抱いたことが発奮材料となったそうです)

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プロ入り3年目の成績は打率2割5分3厘、13本塁打、53打点と逆戻りしていた

3年目の1961年は、2割5分3厘、13本塁打、53打点と逆戻りしてしまい、1959年の入団以来、3シーズン、「背番号1」の期待に応えられなかったのでした。

(この年には、監督が水原茂監督から川上哲治監督に替わったそうですが、川上監督は王さんに長嶋茂雄さんに次ぐ中心バッターとしての活躍を期待していたそうです)

「王貞治は巨人入団3年目に荒川博が打撃コーチとなりダメ出しされていた!」に続く

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