高校3年生の春の選抜大会で史上4人目となる2試合連続本塁打を放ち、プロのスカウトから注目されるも、この時もまだ、お父さんの意向で、技師になるべく大学進学するつもりでいたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、夏の選抜大会決勝では、ありえない負け方をしてしまい、「野球でやり残した」と感じるようになり、プロへの道を考え始めたといいます。

「王貞治は夏の甲子園でノーヒットノーランを達成していた!」からの続き

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プロのスカウトからバッターとして注目されるもプロになるつもりはなかった

1958年、高校3年生の春の選抜大会で、史上4人目となる2試合連続本塁打を放ち、バッターとしてプロのスカウトから注目を浴びた王さんですが、この時も、依然、プロ野球選手になるという選択肢はなかったそうで、お父さんの望み通り、大学に進学するつもりでいたそうですが・・・

(この年は、立教大学から巨人に入団したゴールデンルーキー・長嶋茂雄さんの話題で世間はもちきりだったそうで、王さんは、練習を終えて帰る途中、上野あたりの街頭テレビで野球中継を見ていたそうですが、自分には全く無縁の、テレビの世界の話だと思って見ていたそうです)

高校3年生の夏の選抜大会決勝でありえない負け方をしていた

同年(1958年)夏、東京都大会決勝の明治高校戦、1対1で延長12回表を迎えると、先攻の王さん率いる早稲田実業高校は4点を勝ち越すも、

(この時、誰もが、早実の甲子園出場間違いなしだと思い、球場に応援に来ていた叔父さんたちは、王さんのお父さんが経営する中華料理店「五十番」で祝賀会をするべく、準備のため、帰ったそうです)

12回裏には、エースの王さんが、ワンアウトから失策や押し出しなどを出してしまい、雲行きが怪しくなったそうで、急遽、河原田明投手がマウンドに上がったそうですが、その流れは止められず、再び王さんがマウンドに戻るも、この回で5点を失い、信じられないような逆転サヨナラ負けを喫し、5季連続の甲子園出場は果たせなかったそうで、

その後、王さんは、放心状態となり、「野球でやり残した」という思いが日増しに強くなっていき、大学に進学するという意思が揺らぎ始めたのだそうです。

ちなみに、王さんは、この時のことについて、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」に、

この負け方は私でなくても引きずるだろう。私は巨人を含め、家に押しかけていたスカウトには大学進学を宣言していたのだが、あまりの負け方に何かをやり残したという思いがぬぐえなくなった。

プロの話を聞いてみようか・・・。高校受験に失敗して早実に入り、高三の夏の敗北。私の人生すごろくは、挫折のたびに、野球へ野球へと進むようになっていたようだ。

と、綴っています。

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阪神の名スカウト・佐川直行から熱心に口説かれていた

実は、王さんは、数多くのプロ野球球団から誘いがあった中、大学進学を宣言したことで、巨人をはじめとするプロ野球球団のスカウトたちから手を引かれていたそうですが、

村山実投手らをスカウトした阪神の名スカウト・佐川直行さんだけは諦めず、

(もしプロ入りするとしたら、巨人に入りたいと考えていた王さんに)巨人は大卒が多いから、高校出では苦労する。阪神なら高校出の先輩も多くてやりやすい

と、自宅に通い詰め、熱心に口説かれたそうで、

王さんのお母さんも、佐川さんから「(巨人では)息子さんが苦労しますよ」と言われていたことから、(親心で)阪神入りを勧めてくるようになり、

ついには、王さん自身も、阪神入りにかなり気持ちが傾いていったのだそうです。

(当時は、ドラフトのない自由競争の時代だったため、契約書を交わせば、それで決まりだったそうです)

「王貞治が巨人に入団した理由は少年時代から川上哲治のファンだったから!」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)

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