1957年、2年生で迎えた、春の選抜大会準々決勝、山口県立柳井高等学校戦では、打つ方は4打数2安打2打点、投げる方は無四球完封の大活躍で4対0と勝利し、準決勝に進出した、王貞治(おう さだはる)さんは、準決勝でも完封して3試合連続完封で決勝に進出すると、決勝では完封こそ逃したものの、見事、優勝を飾ります。

「王貞治は高1の秋にエースとなりノーワインドアップ投法で活躍していた!」からの続き

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高校2年生で迎えた春の選抜大会では準決勝まで3試合連続完封していた

2年生で迎えた、春の選抜大会準々決勝、山口県立柳井高等学校戦で投打に活躍し、早稲田実業高校を準決勝に導いた王さんは、続く翌日の準決勝、久留米市立久留米商業高等学校戦でも完封して6対0で勝ち、3試合連続完封で決勝戦まで進出したそうです。

(王さんは、指のマメが潰れるというアクシデントに見舞われていたそうで、東京でテレビ観戦していたはずのお父さんが、ひょっこり、甲子園の宿舎に現れ、治療してくれるも、つぶれたマメが固まったわけではなかったそうですが、自身の火事場の馬鹿力か、お父さんの親心の影響か、痛みつつも夢中で投げ続けていると、最後まで投げることができ、気がつくと完封勝ちしていたそうです)

春の選抜大会決勝・高知商業高校戦では8回表まで5対0とリードし圧倒的に有利だったが・・・

そして、高知商業高校との決勝では、初回から、3番の内山さんが左前打で出塁し、4番の王さんがワンバウンドで左翼フェンスに達する二塁打を放って先制すると、続く5番の柿崎弘一さんもタイムリーを放って王さんが生還し、いきなり2点の先制。

また、2回にも1点を追加すると、5回には、王さんが送りバントを決めて2点を加え、5対0となったそうで、余裕の展開だったそうですが・・・

(今でこそ、高校野球は10点入れることも珍しくありませんが、当時は、金属バットではなく、木製バットを使っていたため、それほど球が飛ばず、5点は大量得点だったそうです)

早稲田実業高校が創部以来初の優勝

誰もが余裕だと思っていた8回裏、高知商業高校に3点を奪われると、依然、2死二、三塁で、あと1打で同点というピンチに追い込まれたそうで、35イニング目の初失点に、王さんは動揺したそうです。

しかも、次のバッターは、後にプロ入りするほどの実力を持つ坂本宏一さんだったそうですが・・・

坂本さんも気負っていたのか、王さんが、一瞬、「手元が狂った」と思ったボール球に手を出してくれて三振し、ピンチを脱すると、9回には、2死一塁からけん制でランナーを刺しゲームセットとなったそうで、

王さんは、4試合連続完封は逃したものの、5対3で完投勝利し、早稲田実業高校は、実に、1905年(明治38年)に創部されて以来の初優勝を果たしたのでした。


決勝後の王さんの左手。中指は1センチほど裂け、人さし指には血がにじんでいたそうです。

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一躍全国的に注目される存在に

ちなみに、早稲田実業高校の全国制覇は、関東にとっても初めての全国制覇で、それだけに関係者の喜びは大きく、東京ではオープンカーでの優勝パレードが行われるなど、高校野球では考えられないほど、尋常ではない盛り上がり様だったそうですが、

宮井監督よると、実は、久保田総監督が奔走して新聞記者のあらゆる人脈を駆使し、悲願の全国優勝にふさわしいパレードを企画していたのだそうです。

また、王さんも、この春の選抜大会優勝で全国的に注目される存在となったそうで、つい昨日まで普通の高校生だったのが、突然、スターのようになり、

地元・押上ではちょうちん行列が行われ、実家の中華料理店「五十番」や武蔵関にある早稲田実業高校の練習グランドには追っかけの女性たちが押し寄せるほか、プロのスカウトも訪ねて来るようになったそうで、変な感じがしたそうですが、

「勝つ」ということはこんなにいいものなんだ

と、この時、初めて勝利の味を覚えたのだそうです。

「王貞治は夏の甲子園でノーヒットノーランを達成していた!」に続く


1957年4月9日、第29回選抜高校野球大会で優勝し東京駅前からパレードする早稲田実業ナイン(車中央で手を振っているのが王さん)。

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