1956年の夏の甲子園2回戦では、1年生にして先発に起用されるも1対8で惨敗してしまい、3年生にちょっとしたしこりを残したという、王貞治(おう さだはる)ですが、その年の秋にノーワインドアップ投法に変更すると、翌年の春の選抜大会では次々と好投し勝利を収めたそうです。

「王貞治は高1で甲子園先発も惨敗し3年生に不満を抱かれていた!」からの続き

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1年生の秋にエースとなるとノーワインドアップ投法に変更

1956年の夏の甲子園2回戦では、1年生にして先発に起用されるも、フォアボールを連発して1対8で惨敗してしまったという王さんですが、同年秋、3年生が抜けて新チームとなると、背番号「1」をもらい、エースとなったそうで、

課題の制球難を克服するため、いろいろと考えた結果、腕を頭上に振りかぶらない、ノーワインドアップ投法に決めたそうです。

(当時は、振りかぶるとその反動でより強い球が投げられると考えられており、ランナーがいなければ振りかぶって投げるのが当たり前だったそうですが、制球面を考えると、手順が増え、動作が大きくなることで、マイナス面もあったため、投球動作をコンパクトにしたらどうだろうと考えたのだそうです)

秋の東京都大会決勝ではノーワインドアップ投法で勝利

すると、ノーワインドアップ投法で投げてみると、狙い通り制球が安定し、そのうえ、球威も落ちなかったそうで、

秋の東京都大会では、順調に勝ち進み、決勝の日本第一高校(日大一高)戦では、被安打2、10奪三振と好投し、6対0で勝利出来たのだそうです。

(3回には、自ら三塁打で追加点を叩き出したそうです)

春の選抜大会は2回戦は1安打投球、準々決勝は完封で勝利していた

そして、翌年1957年の春の選抜大会、初戦の大阪・寝屋川高校戦では、エースで4番として出場すると、寝屋川高校の島崎武久投手といずれも譲らぬ投手戦が展開したそうで、

最終的には、0対0で迎えた5回に3年生の主将・堀江康亘さんが叩き出した1点を1安打投球で守りきり、勝利すると、

(王さんたちは、島崎投手のドロップ(大きく縦に割れるカーブ)を使った頭脳的なピッチングをなかなか打ち崩すことができなかったそうです)

翌日4月5日の、山口県立柳井高等学校戦との準々決勝では、王さんは、打つ方では4打数2安打2打点、投げる方では5安打無四球の完封と大活躍し、4対0で勝利し、準決勝に進出したのだそうです。

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父親が指を痛めているのに気づき手当しに来てくれていた

ちなみに、王さんは、連日の素晴らしいピッチングの裏で、指のマメが潰れるというアクシデントに見舞われていたそうですが、

東京でテレビ観戦していたはずのお父さんが、ひょっこり、甲子園の宿舎に現れ、「これで治る」と言いながら、朝鮮人参を噛んで包帯で指に巻き付けてくれたそうです。

(お父さんは、テレビで王さんの仕草を見て指を痛めていることがわかったのでした)

「王貞治は高2の春の選抜大会で3試合連続完封勝利していた!」に続く

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