1957年、2年生で迎えた春の選抜大会で、早稲田実業高校を創部以来初の優勝に導き、全国的に注目される選手になった、王貞治(おう さだはる)さんは、その後も、活躍を続け、夏の甲子園出場も決めると、2回戦の大阪・寝屋川高校戦では、ノーヒット・ノーランを達成したといいます。

「王貞治は高2の春の選抜大会で3試合連続完封勝利していた!」からの続き

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2年生で迎えた夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成

春の選抜大会で優勝を果たした早稲田実業高校は、夏の甲子園の予選も順調に勝ち抜き、決勝の日大一高戦も11対0で圧勝して、3季連続の甲子園出場を果たすと、

夏の甲子園の2回戦では、春の選抜でも対戦した大阪・寝屋川高校と対戦となり、春の選抜の時と同様、王さんと島崎武久投手の投手戦となったそうで、10回を終えても0対0のままだったそうですが、

(この時点で、王さんは、寝屋川高校をノーヒットノーランに抑えていたそうです)

早稲田実業高校は、11回表、3番の王さんが敬遠された後、4番の相沢邦昭さんが犠牲フライを打ち、ついに先制。

すると、11回裏は、王さんが寝屋川高校の攻撃を無安打で抑えたそうで、早稲田実業高校は1対0で勝利します。

(王さんは、見事、延長ノーヒット・ノーランを達成)

夏の甲子園準々決勝では2対1の逆転負けを喫していた

しかし、神奈川県法政大学第二高等学校(法政二高)との準々決勝では、初回、1番の堀江さんがフォアボールで出塁後、王さんがタイムリーヒットを放って先制するも、3回、1アウト後に、王さんは連打を浴びて2失点すると、早稲田実業高校は、その後、得点することができなかったそうで、

結局、2対1で負け、王さんの高校2年生の夏は終わったのでした。

高校3年生の春の選抜大会では史上4人目となる2試合連続本塁打を放っていた

それでも、王さんは、翌年の1958年、3年生で迎えた春の選抜大会では、初戦の奈良県立御所実業高等学校戦で、左投手から左翼スタンドへホームランを放つと、2戦目(準々決勝)の熊本県立済々黌高校戦でも、右翼スタンドにホームランを放ったそうで、

史上4人目の記録となる、2試合連続本塁打となり、プロのスカウトから、打者としての注目が高まります。

(当時の甲子園球場はラッキーゾーンがあったのですが、高校野球でも木製バットを使っていたため、打球がなかなか飛ばなかったそうです)

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ピッチャーとしてはピークを過ぎていた

ただ、ピッチャーとしては、2年生で迎えた夏の甲子園準々決勝で逆転負けを喫した時がピークだったそうで、

2試合連続本塁打を決めた済々黌戦では、初回に四球から崩れて3失点してしまい、このことが原因で、早稲田実業高校は敗退してしまったのだそうです。

ちなみに、王さんは、この時、どうもフォームがしっくりこないと感じていたそうですが、実は、正月休み、毎日のように家の近所の卓球場で遊んでいたそうで、そのせいかもしれないと思ったそうです。

(当時、早実の練習は年末年始の休みが長く、学校の日程に従って、クリスマスの前から1月の第1週くらいまで休みだったそうです)

「王貞治は阪神タイガースに入団するはずだった?」に続く

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