1962年に「一本足打法」に切り替えて以降はホームランを量産し、長嶋茂雄さんと交代で計1231試合で4番を務めるなど、長嶋さんと共に巨人の9年連続日本一に大きく貢献するほか、1977年9月3日のヤクルトスワローズ戦では、メジャーリーグ記録(ハンク・アーロン選手)を抜く756号ホームランを達成した、王貞治(おう さだはる)さんですが、1980年にはついに引退。ただ、なんと、この年も30本塁打していました。今回は、なぜ、王さんが引退を決意したかをご紹介します。

「王貞治は荒川博を指導者として絶賛していた!」からの続き

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一塁守備時けん制球に不安を感じるようになった

王さんは、1979年(39歳)には、「一本足打法」に切り替えた1962年以来、初めて、打撃主要三部門のタイトルを1つも取れずに終わり、この年は、打率2割8分5厘、33本塁打、81打点と成績が下降しているのですが、それでも、肉体的にも精神的にも、43歳くらいまではできると思っていたそうです。

しかし、1979年か1980年頃、思わぬことが起こったそうです。

それは、守備の時、一塁手の王さんは、ランナーが出るとベースにつき、ピッチャーのけん制に備えるのですが、これまでは、形ばかりのけん制球など、鼻歌交じりでも捕って返せていたのが、ある日のこと、しっかり構えて、きちんとボールを見ないと後ろに逸らしてしまいそうな不安を感じたのだそうです。

速球派でないピッチャーに凡打し長嶋茂雄監督に「引退」をほのめかしていた

そして、その後、このような衰えは打撃にも現れるようになったそうで、1980年には、決して速球派ではないピッチャーのボールを凡打することも多くなり、

シーズンも終わりに近い、1980年10月2日、ヤクルト戦で29本塁打を放った後、長嶋茂雄監督に、

このまま調子が上がらなければ引退しようと思っています。

と、打ち明けたのだそうです。

現役続行を示唆するも現役引退

そして、シーズンも残り5試合となった、同年10月12日、ヤクルト戦で、神部年男投手から30号本塁打を放ち、19年連続30本塁打(通算868号)を記録すると、

王さんは、

自分でも信じられないけんだけど、今シーズンはボールが見えたり見えなかったりの繰り返し。目がどうのこうのではなく、打つべきポイントがとらえにくくなったということです。

ポッといいときがあっても、そのタイミングが次につながらず、打てる気がしなかった

と、語りつつも、

人は笑うかもしれないけど、来年も40本を目指す

と、現役続行に意欲を見せていたのですが、

同年11月4日、

口はばったい言い方だが、王貞治としてのバッティングができなくなったからです

と、現役を引退し、結果的に、これが最後の本塁打となったのでした。

本当の引退理由は?

ちなみに、王さんは、後年、

その年(1980年)の後楽園球場での中日との試合で、先発した戸田(善紀) 君の球がものすごく速く見えた。前の自分なら打てるはずの球が打てなくなったので、『ああ、俺ももう御仕舞いかなあ…』と思ったんだよ

と、語っているほか、

本当は(通算本塁打を)1000本打つまで現役やりたかった。756号を境に周囲の目、環境、生活が一変してしまった。(メジャー通算本塁打記録の)アーロンが755本で終わらずに900本も打ってくれていればなぁ

とも、語っているのですが、

公式戦の最中、試合中に王さんが当時流行していたルービック・キューブを回す姿を複数の記者が目撃しており、某記者はそんな王さんの姿を見て「王はもう燃え尽きたんだ」と思ったと語っています。

(それでも、最終年の成績は、打率は2割3分6厘とこの年の規定打席到達者中最低打率も、30本塁打、84打点を記録しています)

さらに、最終年の打率が2割3分6厘とこの年の規定打席到達者中最低打率だったことから、通算打率が3割1厘となっており、もう一年現役を続ければ、通算打率が3割を切る可能性があったことから、これを嫌って引退したのでは、とも考えられています。

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ヤクルト戦で19年連続となる30本塁打を記録した際に引退の意思は決まっていた?

また、王さんは、10月12日のヤクルト戦で神部年男投手から19年連続となる30本塁打を放った時に、(現役を続行してほしいという周囲の声をよそに)引退の意思は決まっていたとも語っており、

著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」には、

個人のことだけだったら続けていたかもしれないが、勝つという責任を果たせなくなったら潮時である

と、綴っています。

「王貞治の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)

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